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カウンセリング未満

自らの生き様を心理カウンセラーの観点から綴った半生記、日常生活に役立つEQトレーニング講座・セルフカウンセリング講座など。
自分への癒しの試み[最終回]自分の時間を生きるために
母は、平成18年5月9日に亡くなりました。
その一ヶ月前、僕は娘たちを連れ、母と一緒に父の墓参りに行きました。
墓参りは簡単に済ませ、途中にある雰囲気のいい蕎麦屋で蕎麦を御馳走し(母は珍しいヨモギ蕎麦を注文しましたが、色が蓬色なだけで、香りはほとんどしなかったとぼやいてました)、帰路にある、あまり知られていない、しだれ桜が見事な場所に立ち寄ったのです。

実はその前年、やはり墓参りの帰りに、ふと思い出して母をそこに連れて行きました。
「こんな見事な、しだれ桜は見たことない」
そういって母はとても喜んでくれました。
死後読んだ日記にも、その通りのことが書かれていました。
そして「幸せな一日だった」とも。

母は喘息持ちで、あまり長く外出ができません。
前年は家族での花見に誘ったのですが、この年は体調との折り合いがつかず、一緒に行けないままでいました。

だから墓参りはどちらかというと、ついでで、母が喜んだしだれ桜をまた見せたい、しかも大好きな孫と一緒に。
そんな思いで娘たちを伴ったのでした。

しだれ桜は前年同様、それは見事に咲き誇っていました。
そこは市街地にほど近いというのに、どうしたわけか、花見をする者も少なく、僕たちはゆっくりと見て歩くことができたのです。
娘たちは、あまり写真に写りたがらない年頃になっていました。
でも「おばあちゃんにあげるんだから」と言うと、素直に笑顔で母と一緒に写真におさまりました。

満開のしだれ桜の前で、微笑む母と、僕の娘たち。
僕はこの写真の母を、遺影に選びました。

もう少し若い頃の写真、写りの良い写真もありました。
でも、間違いなくこの時の母は、幸せだったと思う。
事実この日のことを母は日記で、再び「幸せな一日だった」と書き記していました。
そして日記には二度と、同じ言葉は登場しなかったのです。
母の日記が途切れるまで。


今、この記事を書きながらもまだ涙ぐむ自分がいる。
僕は果たして「癒されていない」のだろうか?
今、「自分への癒しの試み」の最終回として、書きながら己を見つめようと思う。

哲学者マルチン・ブーバーは、人は「我と汝」の関係でしか捉えることはできないと解いた。
簡単に言えば、「関係」によってのみ、人は存在しえると。
しかし「我と汝」以外に「我とそれ」という関係もある。
「それ」って何だろうか?
「それ」は無機質で、関係の判断材料にはなり得ても、「我」に積極的に関係してはくれない存在に思える。

イジメにおける「無視」がなぜ辛いのか、それは自身を「汝」として扱ってもらえないことに他ならないとも考えられる。
自身が「其れ」に過ぎないと感じられたとき、人は言いしれようのない孤独に突き落とされるのではないだろうか?

翻って、なぜ僕は母の喪失を未だ悲しむのだろう。
答えは実はすでに出ていて、つまりは「孝行が足りなかった」という後悔の念に突き当たる。
つまり、母の「生きていた時間」で考えようとしているからに他ならない。

なぜ父には「バイバイ」と朗らかに言えたのに、母には言えないのだろう。
つまり、父に対しては「僕の時間」で対峙できたのに、母に対してはできないからに他ならない。

父に対してかなり残酷な仕打ちをした僕は「お化けになって出るなら出てみろ」と思った。
そう思っても平気なのは、父の地平は既に昇華されていたからに他ならない。

母に対して「お化けでもいいから出て来てほしい」と願うのは、僕がまだ母の時間と共に生きているからに他ならない。

つまり逆説的に思うのは、母はまだ僕にとって「我と汝」なのだ。
母を「それ」として認められていないのだ。

しかし現実には、僕の時間は留まることなく進んでいく。
「母の時間」との差異は広がるばかりで、広がれば広がるほど溝もまた深まるばかりである。

僕は「母の時間」を置いて行く必要があるのだろう。
父に対して「バイバイ」と言ったように、母にも「バイバイ」しなければならない。

母の生涯を考察したのは、まさにそのためにどうしても必要な作業だったのである。
考察した結果、見えてなかった母の真実が見えてきた。
母は女性として生き、そして母としても生きていたことを知ることができた。
それはまさしく「発見」であった。

それは母にとっては無意識、無自覚、加えて「ただ自分のため」だったのかもしれない。

しかしそれはもはや、どうでもいいのではないだろうか。

僕が「癌」を受け容れ、感謝したように、一人の女性としての母も、受け容れ、そして心から感謝できるはずである。
ならば、清濁併せ持った母を、僕はそのまま全て受け容れよう。

そう思い至れた刹那(つまりこの記事を書いているたった今)、僕が母に対して言いたい言葉が、自然に浮かんできた。
言いたい言葉=母にぴったりの言葉。

それを記して、「自分を癒す試み」を終わらせたいと思います。
自分の時間を生きるために。

「バイバイ、ありがとう。最高にいい女だったね、お母さんは」
| 自分への癒しの試み | 21:10 | - | - | pookmark |
自分への癒しの試み[19]この作業の意味
何のために、こんな作業をするのか?
人は「それは推察にすぎないのでは?」と思うでしょう。
「自分に都合の良いように勝手に作り替えてるんじゃないの?」
と思われる方もいるでしょう。

もちろん、その通りなんです。
でも、客観的かどうかの尺度も、僕の中だけにある。
客観的な推察だと判断しているのも主観であり当事者である自分。

仮に、誰か第三者が「お母さんの生涯の意味はこうだ」と言ったとしましょう。
でも僕がその案を受け容れられなかったら、それも推論に過ぎないのです。

となると、客観的かどうかは、もはや無意味とも言えます。

「癒し」という作業は、きわめて主観的で、どのようなファクターを用いても、主観できなければ癒しにはいたらないでしょう。

例えば人生相談で、時として(キャラクターによって)強烈で断定的な指示がなされることがあります。
受容も共感もなく叱咤にも似たそのアドバイスに、感じ入って涙を流し、変容を誓う人もいるわけです。

「癒し」とはようするにこういうことなのではないか?
つまり、客観性や共感があった方がいいであろうが、別になくてもいい。
更に強調すれば「癒される」体験に、セオリーやマニュアルは存在しないのだと感じるのです。

翻って僕のこの作業の意味。
これは長く根気のいるセルフカウンセリングです。
相談者には、とても勧められません。
だからある意味これは、自分を被験者とした実験でもあるわけです。

自らが癒されるという体験。
そして、多くのカウンセラーが語ることをしない自己を開示することで、いったい何が変わるのか、それを知りたいと思うのです。
そして相談者が、尾内繁夫という一人のカウンセラーを知る、指標の一つになればいい。
それとこの過程で、自分がいくつかの気づきを得られればいい。

そしてこの過程で、僕は多くの気づきを得てきました。
その気づきの一つ一つは、形は違っていても、誰もが抱えてしまいやすい「悩み」と、源泉が同じなのです。
換言すれば、カウンセリングで知る相談者の問題の本質と同じものが、実は自分の中にもあった。
この気づきは、カウンセリングという、人の心の機微を取り扱う仕事において、尾内繁夫というカウンセラーの特徴となりうると感じられたのです。

なんでも類型化して自分の体験や印象に引き寄せることは、相談者不在の自己満足ですから避けなければなりませんが、「判る」ではなく「分かる」といえる力、「知る」ではなく「識る」といえる変化が、この作業を通して明らかに自分の中で起こりました。

人は、矛盾を抱えて生きる存在です。
その矛盾をネガティブにとらえたとき、多くの悩み、辛さ、難しさが生じる。
その矛盾を肯定的なとらえられたとき、「生きづらさ」の要因の多くは消え去るのではないか?
そんなことを感じつつ僕は、この果てしないセルフカウンセリングを続けています。
| 自分への癒しの試み | 23:13 | - | - | pookmark |
自分への癒しの試み[18]一人の女としての母
少女時代の母は、奉公に2度出され、実は2度とも逃げ帰っています。
それだけ川崎時代とギャップがあった。
そして状況変化をどうしても受け容れられなかったと、いうことだったのでしょう。

しかしやがて、地方の生活にも慣れてきたのでしょう。
戦災も受けなかったので復興も早く、元々商いの盛んな街でしたから、川崎市とは比べものにはなりませんが、若者が遊ぶ場所には事欠かなかったようです。
当時、多くの若者と同様にダンスホールに通い、映画館には毎週のように出掛けたと、結婚前の数年間を懐かしみ、楽しそうに語る母をよく覚えています。

それがどういう経緯かはわかりませんが、父と出会い、妊娠して結婚して、そして父に、女としてのプライドをメチャクチャにされたわけです。
あのまま何も変化が起こらなかったら、母は、ひいては僕たち子供はどうなっていったのだろう?
そう考えるとゾッとするものがあります。

兄が生まれてからの日記には、一人でどこにでも行ってしまう父への不満が書き連ねられていました。
母の兄弟達の旅行にも、育児があるからと母を置き、自分だけ参加することもあったようです。

しかし母の日記は、親しい友達ができてから一変します。
母にできた友達は、とても社交的な方で、母を積極的に色んな集まりに誘ってくれたようです。
最初は戸惑っていた母もやがて「こんなにもあの人に苦しめられているのだから、私が少しくらい自分のために遊んだってバチは当たらないだろう」
と考え、友達に誘われて交友関係を広げていくのでした。

やがて次男の僕が就学すると、友達と旅行にも出かけるようになります。
あの70年大阪万博にも行きました。
僕が9歳の歳です。
お土産に「太陽の塔」型貯金箱をもらったことを鮮明に覚えています。

「少しくらい遊んだってバチは当たらないだろう」と決心した母でしたが、僕たち子供に対しては罪悪感を感じていたようです。
「まだ小さいshigeoをおいて出掛けてしまう私はひどい母親だろうか」

しかしそれでも出掛けずにはいられなかった。
自分の世界を広げずにはいられなかった。
父のしたことは、今なら立派なモラハラ(モラル・ハラスメント)、ようするにDVです。
かつての僕が抱えていた攻撃性は、たぶんに父の影響を受けていると感じるのですが、僕が致命的な父の加虐性を引き継がずに済んだのは、大きな孤独感と空しさを体験することになるのだけど、被害者である母が、自分の世界を持つことで、父と対等でいわれたからに他ならないと思うのです。

つまり母は、一方的な暴力に耐え、無感覚に陥ることはなかった。
耐えつつも、自分の好きなことをやり通したのです。

母は自らが被害者心理に陥ることなく、子供にも父の血を受け継がせなかった・・・・
母は体を張って僕たちを守ってくれた・・・・
と推察・理解できるのも、今だからなのですが。

両親に共依存があったのかどうか、もはや情報が乏しくて判然としませんが、想像するに、病弱な祖父の存在、自分の青春を犠牲にされた体験が、如何にも丈夫そうな徳二に惹かれた要因の一つなのではないかと思うのです。

当時、結婚を考えたもう一人の男性を僕は知っています。
今思えばその男性は、貧弱な体型をしていました。

もう一つ、祖父が失明したのは酒が原因だったといいます。
かなり飲む人だったらしい。
やはり大酒のみの徳二に惹かれたのは、彼の中に祖父の面影を見たからかもしれません。

もはや全て、墓の中ですが。
| 自分への癒しの試み | 10:02 | - | - | pookmark |
自分への癒しの試み[17]母親としての母
今、母を責める気はまったくないのですが、僕には2つ、人より明らかに劣っているとろこがありました。
それはペンの持ち方と箸の持ち方です。

実は僕は左利きで、就学前に無理矢理、鉛筆と箸を右で持つように直されたのです。
(40年前はそういう時代でした)
しかしそれが中途半場な直し方だった。
僕はとても変な持ち方を覚えてしまい、字を書くのがとてもヘタでした。
箸も、細かいものなど何もつまめません。
食事はいつも掻き込むようにして食べていました。

母の日記を読むと、小学1年の通信簿に「文字が著しく汚い」と書かれていてショックを受けた、と書かれています。
「そういうことに気を回せなかった自分が恥ずかしい。母親として申し訳ない」とも書かれていました。

しかし、記憶している限り、それを契機に鉛筆の持ち方に関して注意されたことも、教えてもらったこともありません。
事実、僕は高校に進学するまで、その非常に間違った持ち方を続けていたのですから。
(余談ですが、鉛筆も箸も、高校に上がって自意識に目覚めて、人に見られるのが恥ずかしくて自分で直したのです)

これは一例ですが、実は母のことを思い返すとき、思い浮かぶのは「放任」です。
細かいことまで管理されるよりはマシだったと今でも思いますし、放任されたことに恨みも悔いもありません。

ただ、自分のいい加減さを棚に上げて書きますが、小学5年の時の林間学校を欠席したのは、当日寝坊したからでした。
なぜ寝坊したのか?
5歳年上の兄の影響で、当時隆盛を誇っていたラジオの深夜放送にはまっていて、就寝時間が著しく遅かったから。
そして、母が前日から友達と旅行に出かけていて、起こしてもらえなかったからです。

もちろん僕の自己管理がなってなかったのですが、
どうなんだろ?
「普通」の家庭だったら、それでも母親は起こしてくれたんじゃないだろうか?
そんな思いがいつまでも、いつまでも消えませんでした。

僕が高校に上がった頃が、父の酒乱が一番ひどかったときで、同時に、母が家事をほとんどしなかった時期でもありました。

朝になって、着ていくワイシャツがない、靴下がない。そんなことが何度もありました。
洗濯かごの中から、比較的汚れていないワイシャツを選んで、着ていったこともありました。
日曜になると自分で洗濯して、自分で畳みました。
食事は、家の一角で料理屋をしていましたから、空腹になると調理場に行って、勝手に取り分けてくるのです。
ご飯なんか何日も炊飯器に入れたままで、カラカラになっていたりもしました。

もちろん、甘えてないで自分で何でもやればいいだけです。
実際、そうしている友人もいましたし。

しかし、どうしても比較して自分は幸せだったと思うことができない。
・・・できないのです。

母は料理屋を営んでましたから、客に勧められればお酒も飲みます。
酔っぱらった母も大嫌いでした。
酔って抱きついてきたりすると、虫ずが走りました。

とてもだらしなく感じられました、母が。
箸の持ち方もちゃんと教えられず、家事もしない、一人で父から逃げ、遊び歩いてばかりの派手な化粧をした酔っぱらい、そんな母が大嫌いだったのです。

そのくせ、「shigeoはお兄ちゃんみたいに遠くに行かないで」と、何度も何度も繰り返し言う母。
「shigeoがいなくなったら、母さん、生きてられないから」とも言う母。

しかし、そう懇願されればされるだけ、僕の気持ちは離れて行きました。
そこは家庭であって「家庭」ではありません。
血はつながっていても、家族と思えなかったのです。
| 自分への癒しの試み | 23:12 | - | - | pookmark |
自分への癒しの試み[16]母親の役割
父の回で書きましたが、兄が生まれる前から父に悩まされていた母は、次男の僕の誕生を変化の切っ掛けにしたいと願っていたようです。
しかし残念ながら母のその願いは叶いませんでした。

今思うと、母の生涯は、傷つけられたプライドの再生に尽きると感じるのです。

母は、父親(僕の祖父)の仕事の関係で青春時代を神奈川県の川崎市で過ごしました。
女学校に通い、将来は文学に関係する仕事に就きたいと夢想していたのですが、その夢は祖父の失明と、戦争によって打ち砕かれます。
失明して職を失った祖父一家は、故郷の足利へと舞い戻ります。
仕事は何もありません。長女である母は直ぐに奉公に出されました。

都会で、自由に華やかに学校に通っていた少女には、あまりに厳しい環境の変化だったと思います。

戦争終結後、祖父は死に、母の兄が一家の大黒柱として家族を支えることになります。
この伯父も、行きたかった大学進学の道を閉ざされ、若くしてその母と4人の弟妹を養うことになったのです。

過酷な時代だったのだなと思います。
(ちなみに母方の一番下の叔母は、キャスリン台風で足利が大打撃を受けたとき、生きていても辛いだけだと増水した川に投げ捨てられそうになったそうです。今でも兄弟が集まると「お前は死に損なったんだ」と言われます)

この後、どういう経緯で母が父と知り合ったのかは判然としません。
しかし「見合い」でなかったこと、今でいう「できちゃった婚」であったこと、加えて「もう一人、結婚を考えた男性がいた」ことは事実だったようです。
その「もう一人の男性」と結婚していれば・・・
きっと母は何度も思ったのでしょうね。
きっと何度も何度も悔やんだのだと感じるのです。

最初の記事でも書きましたが、結婚して直ぐから、母と父はこんな関係になっていたといいます。

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ただ、亡くなってから発見された母の日記を信じるなら、
父の言葉の暴力は結婚して直ぐ、
5歳上の兄が生まれる前から始まっていたらしいのです。
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また別の記事で
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母の日記によると、酔って帰った父は、
どこの誰々と遊んだとか、一緒に飲んだとか、あとはもっと聞きたくないことまでを、
寝ていた母を起こしてくどくど説明したのだそうです。
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と書きました。

少女時代を都会で過ごした母は、祖父の失業と戦争による貧困で夢と希望を失い、父と結婚することで女のプライドすらも深く傷つけられたのです。

それなのに、何故母は父を選んだのか?
これだけはとうとう母から聞くことはありませんでした。

「あんなに酒癖が悪い人だとは思わなかった」
結婚前の父について母が語ったのは、これだけなのでした。

母の日記は断続的に、兄が生まれる数ヶ月前から、僕が小学1年の時まで続いていました。
その後の日記は存在が認められず、数十年の時を経て、亡くなる数年間の日記が残されていました。

このブログで、まるで僕が古くから母を愛して止まなかったと思われるかもしれませんが、実際はまったく逆です。

僕は父を憎むのと同様に、母のことも憎んでいました。
僕が逃げたかったのは父の存在だけではなかったのです。
母からも逃げたかった。
もっと言えば、母なんか捨ててしまいたかった。

思えば、本当に親不孝な息子だったのです。
時を巻き戻すことはできませんが、仮にできたら、心から孝行したい、そして僕が投げつけた残酷な罵声、一つ一つについて心から懺悔したい。
・・・それが叶うはずがないから、後悔はなくならないのでした。
| 自分への癒しの試み | 22:43 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[15]血を分けた・・・
兄に関して「語りたいこと」と「語れること」のギャップに、今更ながらに僕は戸惑っています。
考えてみれば当たり前で、これはあまりに一方的で、フェアな書き方ではありません。

いかに僕個人の心の問題とは言っても、仮にこの文章を兄が読んで、どんな感想を抱くかと考えると、筆がとても重くなってしまいます。
(横道に反れますが、パソコンで文章を打つ時代に、「筆を置く」とか「筆が軽い」などの表現は、やはり失われていくのでしょうか?)

さて、では一般論として、血縁関係以外の、いったい何を以てすれば「家族」となり得るのか?
逆に血縁とは、それほど重要なものなのか?

小説や映画において、この血縁が重要なキーワードになることも少なくありません。
また現実に、この血縁がもたらす事件や騒動も飽きるほど耳に入ってきます。

結局僕は、父の章で述べた通り、妻を得、子供を持ち、自分で家庭を築くまでこの問題を乗り越えられませんでした。
今、僕がまさに体験しているこの感情=娘達に対する愛は、血縁だけがその理由、根拠なのだろうか?
妻には大変失礼な例えになるが、仮に僕の子ではないと判明したら、僕のこの愛情は軽減するのだろうか?

それは絶対にあり得ない。
と、僕は言える、言い切れます。
それは何故なのか?

それはここで僕が偉そうに述べるまでもなく、生活こそが家族たり得る根拠に他ならないと思うからなのです。
ミルクをあげ、おむつを替え、風呂に入れ、一緒に遊び、一緒に学んできた体験、生活が愛情の源だと、僕は信じて疑いません。

今、父が死に、母も亡くなり、血縁的に残ったのは兄と僕だけです。

「たった一人の兄」です。
母が亡くなったとき、親類は「残ったのは二人切り」と言いました。
「二人切りなんだから、助け合うんだぞ」
と親しい叔父が言いました。

しかし、今まで接点のなかった兄と、いったい何を助け合えというのだろう?
第一、兄に援助を求めることが、この先起こりえるのだろうか?
そしてそれがあり得るとしたら、それは金銭の問題が絡むとき以外にはないのではないだろうか?

「二人切りなんだから、助け合うんだぞ」
というセリフに深い意味はなく、単なる常套句に過ぎないと思われますか?

その通りでしょう。
これは「亡くなったお母さんが天国で見守ってるよ」と大して変わらない程度の常套句であることは分かっています。

ただ僕は、「助け合う」という言葉が、その綺麗な響きに相反して空虚に感じられてならないのが、とても悲しいのです。

どうしてこうなってしまったのか?
そもそも兄弟なんていうものは、こんな程度の関係なのか?
もはや僕には分からないのです。

僕が望んだ通りの「もらわれてきた二人切りの兄弟」であったならよかったのか。
単に、一緒にいる時間がもっと長ければ何かが違っていたのか。
それも分からないのです。

ただ一つだけ分かるのは、血縁だけを以てしては、家族を愛しいと感じられない、という事実です。
もちろん、これが普遍的な真実だとは言いませんが。

しかし、こうも思うのです。
僕がずっと自分の中の「孤独な子供」を感じるように、兄の中にも「孤独な子供」がいるのではないだろうか?

僕たち兄弟は、いつかお互いの、
「孤独な子供」同士を引き合わせる必要があるのかもしれません。
| 自分への癒しの試み | 21:27 | - | - | pookmark |
自分への癒しの試み[14]たった一人の家族
たとえばそれは、「朝起きたら全てが夢で、自分は一人きりだった」というくらいの衝撃でした。
たとえばそれは、「目が覚めたら監獄の中で、子供になった夢を見ていただけだった」というくらいの衝撃でした。

兄は、父の酒乱の実態をほとんど知らなかったのです。
ほとんど、というより「まったく」にきわめて近いものでした。

兄はとても早い時期から一人で寝ていて、そして兄の部屋は両親の寝室から離れていました。
したがって幼児期の僕が二人の言い争いに怯えて泣いていたことを、まったく知らなかったのです、この時まで。

やがて僕が一人で寝るようになってからの何年間(兄が上京するまでの数年間)かは、実は父の酒乱が一時的に収まっていた時期と重なります。

つまり兄は父の酒乱を、なんとなく察していただけで、その被害にあったことも、それどころかその実態を見たことは一度もなかったというのです。
兄は、父が憎くて家を出たわけではなかった。
単に、自分の夢を追い求めた結果だけだったのです。

これは、想像を絶する衝撃的な事実でした。

僕にとっての「家族」
酒乱の父がいて、家事を放棄した母がいて、そして、堪え忍ぶ二人の子供がいる。
それが僕にとっての「原家族」であって、それ以外の一般論とか理想像はまったく相容れないものなのです。

その家族像の中に、兄が存在しないのです。
堪え忍ぶ子供は僕一人きりなのです。
兄は弟を守ってくれる存在でも、どこか遠くへ導いてくれる存在でも、一緒に耐えてくれる同志でもなかったのです。

兄は言ってくれました。
「そうかあ、shigeo一人が辛い思いをしてきたんだね」と。
「知らなくてごめんね」とも。

もちろん、兄に罪があろうはずがありません。
逆に、酒乱の父を知らずに過ごせたことはとても幸運だったと言えるのです。

しかし、悲しいことに僕の家族観は歪んでしまっていました。
堪え忍ぶ可哀想な子供の役目を演じるのは弟だけだったのです。
両親を否定することで大事にしていたかけがえのない家族、二人切りの家族、それが失われた瞬間なのです。

言いしれようのない孤独感が僕を呑み込みました。
もらわれっ子は僕一人だけ。
これからは、僕はたった一人で家族を演じなければならないのでした。
| 自分への癒しの試み | 13:37 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[13]二人切りの家族
兄のいない数年間は、とにかくどん底のような状態でした。
父の章でも書きましたが、母が父から逃げるために家を留守にする機会が増え、だらしない僕は寝坊してそのまま学校を休むことも度々でした。
食事の用意がないことも珍しくなく、何日もインスタントラーメンを食べたり、古く固いご飯を炒めただけで食べたりしました。

そんな毎日の中で思うことは、この家を飛び出したいということ。
そして、兄に会いたいということでした。

たまに帰省する兄はますます大人びて、僕の望むものを全て持ち合わせているように感じられました。
とにかく話がしたかったのです。
兄がきっと、この惨めな現実から僕を逃がしてくれると思っていたから。

兄が上京してすぐから、僕は東京に出掛けたくて仕方がありませんでした。
単に都会の空気に触れたかったということもありますが、とにかく自宅以外で兄に会いたかったのです。
しかし中学時代は、とうとう一度もその願いは叶いませんでした。
こんな崩壊しているような家庭でしたが、なぜか僕は黙って勝手に出掛けられなかった。
やがて高校生になると、友達の部屋を泊まり歩いて家にもあまり帰らなくなるというのに、中学時代はまだ、自分が勝手に生きていいとは思えなかったようです。

高校に上がって、ようやく僕は、東京に一人で出掛けられるようになりました。
最初は、母も知っている友達と一緒。
彼と何度か日帰りで東京に遊びに行き、やがて一人でも出掛けるようになっていったのです。

東京は刺激的な街でした。
秋葉原はよく行った街です。
今はすっかり綺麗になってしまいましたが、あの頃は汚くて怪しい雰囲気が充満していました。

初めて行った新宿では、あまりに巨大な駅ビルに圧倒されました。
そして信じられないほどの人の数。

ある時、兄がアパートを引っ越すと聞きました。
一人では大変だろうからと、僕は猛烈に手伝いを買って出ました。
泊まって兄とゆっくり話すチャンスなのです。

僕にはどうしても話したいことがありました。
もちろん、家族のことです。

弟が家族について語る能力を有する前に、兄は家を出てしまいました。
兄が上京した後が、父がもっとも荒れていた時期です。
しかも母は父から逃げるために家事を疎かにしていました。
僕の苦しみを知るものは誰もいないのです。
父の対する恨み辛みを、誰かに聞いてほしかったのです。
しかしそれは他人じゃダメだったのです。

その頃の僕にとっては、兄だけが家族と呼べる存在でした。
父も母も家族じゃない、家族と思いたくありませんでした。

その頃夢見ていたのは「実は僕達兄弟は養子で、本当の両親はどこかにいる」という妄想。
高校生にもなって、僕はそんなことを夢想して自分を慰めていたのです。

それは高校一年の春休みだったと思います。
僕は兄から詳しく教えられた通りに地下鉄を乗り継ぎ、一人で兄のアパートに到着することができました。
たしか四畳半で、兄はここで新聞配達のバイトをしながら音楽大学に通い、そして生活していたのです。

日用品は少ないものでした。
レンタカーのワンボックスカーに全てが一回で納まってしまい、兄はその日のうちに新しいアパートに越してしまいました。

連れ立って銭湯に行って、定食屋で夕飯を食べ、二人は音楽のことを中心に止めどなく喋り続けました。
やがて夜になり、電気を消して二人は横になりました。
僕は思いきって、父について切り出しました。
たぶん「お兄ちゃんはお父さんのこと、どう思っているの?」と聞いたのだと思います。
そしてきっと、僕が舐めてきた苦い経験と同じことを話してくれるのだと思っていました。

僕達はもらわれてきた兄弟で、どんな荒波も苦しみも分かち合ってきたのだと、僕は信じて疑わなかったのでした。
| 自分への癒しの試み | 21:22 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[12]兄弟という存在
兄について触れますが、あくまで僕の自己変容がテーマです。

実は、存命の兄弟について語ることについてはかなり悩みました。
しかしこれは、弟の感情と心が問題なのであって、この記事を以てして兄という存在や人格を評価するものではまったくないこと。
また、書きたいのは兄弟物語ではなく、僕自身の自己変容であること。
これらの気持ちの整理をきちんとつけた結果、逆に書く目的がより鮮明になってきたのです。

結論から述べれば、これは僕にとっての「家族観」なのです。
というか、自分の家族観を認識できていなかっただけのことで、僕は長い間悩んでいたにすぎない、そしてそれが「兄弟」というフィルターを通し改めて気付かされたのです。
だから兄弟を語ることは、僕にとって「家族」について考えることと同じなのです。

では、「僕にとって兄はどんな存在だったか」から、この章を始めましょう。

兄の存在は、とても曖昧でした。

5つ離れていたので、仲良く遊んだ記憶はほとんどありません。
兄は、僕の誕生を心待ちにし、赤ん坊の頃はずいぶん面倒を見てくれたそうです。
しかし残念ながら、その頃の記憶はまったく残っていません。
それらをしっかりと記憶していたら、果たして僕のその後の認識は変わったのだろうか?
仮定で考えると、なにか「なくしてしまった」ような心持ちになります。
しかしそれは、「優しくて家族思いの父がいたら」と想像することと、どこも違わないのではないかとも思えるのです。

しかし同時に兄は、常に自分の先を行く、先輩であり先生であり、見本でした。
兄が面白いというものには興味を示して、
兄が勧めるものは何でも受け容れてきました。
今も僕が持ち続けている趣味嗜好は、たぶんに兄の影響を受けているのです。
これは疑うことも否定することもできません。
兄は、幼稚な僕に「背伸び」という優越感を与えてくれる貴重な存在なのでした。

どっちも僕の兄です。
どちらも間違いなく兄だから、逆にある時期から兄の存在が僕の中で曖昧になってしまったのです。

兄は優秀で、地元一の進学校に進みました。
と同時に、兄にとって念願だった音楽教室にも通い始めました。

中学時代は水泳部、三年の時には写真部を仲間と一緒に作り、高校生になっては弁論部で賞をもらう、そして音楽にも真剣に取り組む。
そんな兄は憧れの存在で、自分の進む道を常にしっかりと認識している人だと思っていました。
(中学生の僕は、漠然とそんな感じを抱いていただけですが)

しかしやがて兄は、意外にも音楽家を志し、東京の音楽大学進学を選択したのです。
そう聞かされて(たぶん母に)、とにかく僕は驚きました。
しかし同時に、とても納得できることでもありました。

兄が家を出る。
音楽家を目指したと言っても、実は父から逃れる意図もあるはずだと僕は感じました。
それは当然だと思いました。
そしてやがて僕が進む道筋を、また兄が切り開いてくれたのだとも解釈したのでした。

このとき僕は中学一年。
兄から強い影響を受けていましたから、僕の目指す道も、必然的に音楽家になったのでした。
楽器なんかほとんど弾けないのに。
兄の進む道はキラキラと輝き、自分はただ兄についていけばいいのです。
そう信じていたのでした。
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自分への癒しの試み[11]手を差し出すのは僕の方だった
父は、あんなに帰りたがっていた実家に、
死んでようやく戻ってくることができました。

夜中にもかかわらずお寺に電話して、慌ただしく葬儀の準備が進められました。
翌20日、通夜
21日、葬儀告別式

取り急ぎの打合せが済み、僕が帰路についたのは午前4時を回っていました。
それからパソコンを立ち上げて、会社のグループウェアに父の死去と葬儀の案内を流して、友人達にも同報でメールを送信しました。
僕が寝たのはすでに空が明るくなった午前5時を回っていました。

翌日は午後、実家に向かいました。
母の兄弟は既に集まっていました。

父は、親戚づきあいもほとんどしていなかったので、父方の親類を僕はほとんど知りません。
結局、父の葬儀に参列した父方の親類はたったの2人だったのでした。
(ちなみに、父がホームに入所した後、実家やホームに父を訪ねてきた者は一人もなく、葬儀に参列した友人も、葬儀後焼香に訪れた友人も皆無だったのです。いったい父は、どんな生き方をしてきたのか? 親友とまでいかくなくても、葬儀に駆けつける仲間が一人もいなかったなんて)

兄は、まだ来ません。
東京に住んでするので直ぐには来られないのも分かりますが、
結局来たのは3時過ぎだったのです。

通夜、葬儀と滞りなく進み、いよいよ父は火葬される段となりました。

ここで意外なことに母が泣き出したのです。
これはもの凄く意外でした。
僕は泣かない。
兄も泣かない。
当然、母も泣かないと思っていたのです。

母にどんな心境の変化があったのか、この時は知るよしもありませんでした。

僕は、花で埋め尽くされた棺に眠る父を見つめながら、もはや何も思うことはありませんでした。
恨み、もない
憎しみもない
怒りもない

しかし後悔もない
悲しみもない

やがて父の棺は閉じられ、炉へと押し入れられました。

僕は心の中で「バイバイ」とつぶやきました。
その瞬間、心のモヤがいっぺんに晴れ、まるで澄み渡る青空に抱かれているような感覚に包まれたのです。

死は全てを浄化するといいますが、僕のこの時の心境はまさにそれでした。

憎んでいたのは自分
恨んでいたのは自分
怒っていたのも、自分

そして被害者だと感じていたのも自分
犠牲者だと感じていたのも、自分だったのです。

父という人間の生や死や存在が、僕の心を支配することはあり得ないわけで、
僕は僕自身で考え思い感じた、その結果で自分を縛っていただけなのでした。

  時間が、嫌になるほどかかってしまったことには悔いが残ります。
  クライエントに対しては
  カウンセラーである自分が用意する「空(から)の椅子」を、
  自分には自分が用意しなければならない。
  そして結局、ここまで引きずって、
  「父の死」が僕にとっての「空(から)の椅子」になったのです。

  これが「セルフ・カウンセリング」の難しさなのかもしれない。

  自身が深いトラウマを抱えたまま
  心理療法に携わっている知人がいます。
  彼女はクライエントのトラウマを受け止め、癒す努力を厭わないのに、
  自身のトラウマに関しては「解決」しようと絶対にしないのです。
  「しない=できない」のでしょうが。

とにかく、この瞬間、父に対する全てのわだかまりは消え去りました。
信じられないほど、あっさりと。

ようするに、僕が手を差し出せばよかっただけなのです。
和解の握手のために。
僕が差し出した手を、父は拒むはずがなかった。
何故なら全ては「僕の心の中」の問題だったのだから。

よく「嫌いな親が自分を産んだことに対して、産んでくれたことに感謝はできるが親の存在は許せない」という矛盾を聞きます。
「嫌いだろうが憎むべき親だろうが、産んでくれたことは事実」
この矛盾(葛藤)に苦しんでいる人も少なくないと聞きます。

しかし全ての父に対する煩悩から解放されてしまった僕にとっては
「父は生物学的な、そして戸籍上の父」
これだけに過ぎません。
「良い」とか「悪い」の地平で何かを語ることに興味がないのです。

ここで初めて「徳二」は僕の父である
と真っ直ぐに誰に対しても(むろん自分に対しても)言えるようになったのです。

淡々と弔おう。
真摯に位牌を、そしてお墓を守っていこう。
そう素直に思える自分。

僕は炉に向かってもう一度言いました。
「バイバイ」
人に見られると不審に思われるので、
心の中でにっこりと微笑んで。

(後日談)

どうして母が泣いたのか、後で聞きました。

「あたしだって泣く気はなかったんだよ。『泣くもんか!』って決めてたしね。だけどね、二人の息子を残してくれたのもあの人だったんだなと思ったら、感謝の気持ちが急に湧いて来ちゃって、それでうっかり泣いちゃったのさ」

この子にしてこの母あり、ですね(笑)

(父の章 了)
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