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カウンセリング未満

自らの生き様を心理カウンセラーの観点から綴った半生記、日常生活に役立つEQトレーニング講座・セルフカウンセリング講座など。
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自分への癒しの試み[15]血を分けた・・・
兄に関して「語りたいこと」と「語れること」のギャップに、今更ながらに僕は戸惑っています。
考えてみれば当たり前で、これはあまりに一方的で、フェアな書き方ではありません。

いかに僕個人の心の問題とは言っても、仮にこの文章を兄が読んで、どんな感想を抱くかと考えると、筆がとても重くなってしまいます。
(横道に反れますが、パソコンで文章を打つ時代に、「筆を置く」とか「筆が軽い」などの表現は、やはり失われていくのでしょうか?)

さて、では一般論として、血縁関係以外の、いったい何を以てすれば「家族」となり得るのか?
逆に血縁とは、それほど重要なものなのか?

小説や映画において、この血縁が重要なキーワードになることも少なくありません。
また現実に、この血縁がもたらす事件や騒動も飽きるほど耳に入ってきます。

結局僕は、父の章で述べた通り、妻を得、子供を持ち、自分で家庭を築くまでこの問題を乗り越えられませんでした。
今、僕がまさに体験しているこの感情=娘達に対する愛は、血縁だけがその理由、根拠なのだろうか?
妻には大変失礼な例えになるが、仮に僕の子ではないと判明したら、僕のこの愛情は軽減するのだろうか?

それは絶対にあり得ない。
と、僕は言える、言い切れます。
それは何故なのか?

それはここで僕が偉そうに述べるまでもなく、生活こそが家族たり得る根拠に他ならないと思うからなのです。
ミルクをあげ、おむつを替え、風呂に入れ、一緒に遊び、一緒に学んできた体験、生活が愛情の源だと、僕は信じて疑いません。

今、父が死に、母も亡くなり、血縁的に残ったのは兄と僕だけです。

「たった一人の兄」です。
母が亡くなったとき、親類は「残ったのは二人切り」と言いました。
「二人切りなんだから、助け合うんだぞ」
と親しい叔父が言いました。

しかし、今まで接点のなかった兄と、いったい何を助け合えというのだろう?
第一、兄に援助を求めることが、この先起こりえるのだろうか?
そしてそれがあり得るとしたら、それは金銭の問題が絡むとき以外にはないのではないだろうか?

「二人切りなんだから、助け合うんだぞ」
というセリフに深い意味はなく、単なる常套句に過ぎないと思われますか?

その通りでしょう。
これは「亡くなったお母さんが天国で見守ってるよ」と大して変わらない程度の常套句であることは分かっています。

ただ僕は、「助け合う」という言葉が、その綺麗な響きに相反して空虚に感じられてならないのが、とても悲しいのです。

どうしてこうなってしまったのか?
そもそも兄弟なんていうものは、こんな程度の関係なのか?
もはや僕には分からないのです。

僕が望んだ通りの「もらわれてきた二人切りの兄弟」であったならよかったのか。
単に、一緒にいる時間がもっと長ければ何かが違っていたのか。
それも分からないのです。

ただ一つだけ分かるのは、血縁だけを以てしては、家族を愛しいと感じられない、という事実です。
もちろん、これが普遍的な真実だとは言いませんが。

しかし、こうも思うのです。
僕がずっと自分の中の「孤独な子供」を感じるように、兄の中にも「孤独な子供」がいるのではないだろうか?

僕たち兄弟は、いつかお互いの、
「孤独な子供」同士を引き合わせる必要があるのかもしれません。
| 自分への癒しの試み | 21:27 | - | - | pookmark |