SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

08
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--

カウンセリング未満

自らの生き様を心理カウンセラーの観点から綴った半生記、日常生活に役立つEQトレーニング講座・セルフカウンセリング講座など。
<< 自分への癒しの試み[17]母親としての母 | main | 自分への癒しの試み[19]この作業の意味 >>
自分への癒しの試み[18]一人の女としての母
少女時代の母は、奉公に2度出され、実は2度とも逃げ帰っています。
それだけ川崎時代とギャップがあった。
そして状況変化をどうしても受け容れられなかったと、いうことだったのでしょう。

しかしやがて、地方の生活にも慣れてきたのでしょう。
戦災も受けなかったので復興も早く、元々商いの盛んな街でしたから、川崎市とは比べものにはなりませんが、若者が遊ぶ場所には事欠かなかったようです。
当時、多くの若者と同様にダンスホールに通い、映画館には毎週のように出掛けたと、結婚前の数年間を懐かしみ、楽しそうに語る母をよく覚えています。

それがどういう経緯かはわかりませんが、父と出会い、妊娠して結婚して、そして父に、女としてのプライドをメチャクチャにされたわけです。
あのまま何も変化が起こらなかったら、母は、ひいては僕たち子供はどうなっていったのだろう?
そう考えるとゾッとするものがあります。

兄が生まれてからの日記には、一人でどこにでも行ってしまう父への不満が書き連ねられていました。
母の兄弟達の旅行にも、育児があるからと母を置き、自分だけ参加することもあったようです。

しかし母の日記は、親しい友達ができてから一変します。
母にできた友達は、とても社交的な方で、母を積極的に色んな集まりに誘ってくれたようです。
最初は戸惑っていた母もやがて「こんなにもあの人に苦しめられているのだから、私が少しくらい自分のために遊んだってバチは当たらないだろう」
と考え、友達に誘われて交友関係を広げていくのでした。

やがて次男の僕が就学すると、友達と旅行にも出かけるようになります。
あの70年大阪万博にも行きました。
僕が9歳の歳です。
お土産に「太陽の塔」型貯金箱をもらったことを鮮明に覚えています。

「少しくらい遊んだってバチは当たらないだろう」と決心した母でしたが、僕たち子供に対しては罪悪感を感じていたようです。
「まだ小さいshigeoをおいて出掛けてしまう私はひどい母親だろうか」

しかしそれでも出掛けずにはいられなかった。
自分の世界を広げずにはいられなかった。
父のしたことは、今なら立派なモラハラ(モラル・ハラスメント)、ようするにDVです。
かつての僕が抱えていた攻撃性は、たぶんに父の影響を受けていると感じるのですが、僕が致命的な父の加虐性を引き継がずに済んだのは、大きな孤独感と空しさを体験することになるのだけど、被害者である母が、自分の世界を持つことで、父と対等でいわれたからに他ならないと思うのです。

つまり母は、一方的な暴力に耐え、無感覚に陥ることはなかった。
耐えつつも、自分の好きなことをやり通したのです。

母は自らが被害者心理に陥ることなく、子供にも父の血を受け継がせなかった・・・・
母は体を張って僕たちを守ってくれた・・・・
と推察・理解できるのも、今だからなのですが。

両親に共依存があったのかどうか、もはや情報が乏しくて判然としませんが、想像するに、病弱な祖父の存在、自分の青春を犠牲にされた体験が、如何にも丈夫そうな徳二に惹かれた要因の一つなのではないかと思うのです。

当時、結婚を考えたもう一人の男性を僕は知っています。
今思えばその男性は、貧弱な体型をしていました。

もう一つ、祖父が失明したのは酒が原因だったといいます。
かなり飲む人だったらしい。
やはり大酒のみの徳二に惹かれたのは、彼の中に祖父の面影を見たからかもしれません。

もはや全て、墓の中ですが。
| 自分への癒しの試み | 10:02 | - | - | pookmark |