SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

09
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
--
>>
<<
--

カウンセリング未満

自らの生き様を心理カウンセラーの観点から綴った半生記、日常生活に役立つEQトレーニング講座・セルフカウンセリング講座など。
[7]冷たい人だと言われることはありませんか?(下)
自分ではそれなりに感情も豊かだし、温かい感情だって持っている、
だけど、友達にも分かってもらえず、淋しい思いをしているあなたへ、前回の続きです。

EQの8つの力には、「共感する力」というものがあります。それを構成するのは3つの要素で、それぞれ、
(1)感動しやすいですか?(感情的温かさ)
(2)人の気持ちに同化しやすいですか?(感情的被影響性)
(3)人の気持ちを尊重できますか?(共感的理解)
です。
               ※( )内は、(株)EQジャパンによる分類法


この「共感する力」の3つの要素はとても似ていて、一見すると違いが分かりません。
簡単に例えてしまうなら
感情的温かさ=優しさや安心感を抱かれる
感情的被影響性=同化したり感化されたりしやすい
共感的理解=親身に相手の話が聴ける
と、捉えてみると理解しやすいかも知れません。

さて、本意ではないのに冷たいと思われるあなたは「人の気持ちに感化されるのが嫌いで(感情的被影響性−)、人前で感情を表すことはよくない(感情的温かさ−)ことだと誤解してのかもしれません。

このよく似た3つの要素を、なるべく分かりやすく解説します。そうすることによって、本来別物である3つの要素が互いに影響を受けやすく、引きずられやすいとこに気付かれると思います。

人は、感情を持つ生き物である以上、人の言葉や態度、物語や景色などから必ず何らかの影響を受け取ります。受け取る程度は人様々ですが、この事実は揺らぎません。

しかし「影響を受ける」とは、具体的にどういうことなのか?
これがとても微妙なのです。

(例)
たとえば、友人Aが恋人に振られました。
親しい仲間で集まって、その友人Aを慰める会を開きました。
Aは、振られた悲しみを切々と訴えます。

Bは何も言わずに、Aの直ぐそばに寄り添うようにしていました。
Cは、Aの話のじっくり聞き、時折短い言葉で相槌を打ったり、頷いたりしていました。
聞いていたDは、自分のことのように、一緒に泣きはじめてしまいました。
Eは怒っています。まるで自分が振られたかのように、Aを振った恋人への怒りを爆発させています。

さて、このB・C・D・Eの4人が、優しい友人であることに依存はないと思います。
ではそれぞれ、Aからどんな影響を受け、どんな「共感する力」を発揮していたと思いますか?

これをEQの「共感する力」3つの要素に当てはめてみるとこうなります。
B=感情的温かさ+
C=共感的理解+
D=感情的被影響性+
E=感情的被影響性+

これは、分かりづらい「共感する力」を理解しやすくするために極端に記述してあり、また要素も一面しか取り上げていません。その点をご了解下さい。

いかがでしょう?
なんとなくイメージは掴めたでしょうか?

ではこの時あなたは、どんなイメージでAを前にしますか?

可哀想だとは思うけど、仕方のないこと。
可哀想なのは分かるけど、自分も一緒になって泣くのはやりすぎ。
他人事じゃないとは感じるけど、結局彼女の問題だしなぁ。

こう感じたとしても、だれもあなたを非情だとは責められないと思います。
ただここで注目していただきたいのは、3つの反応の前半の文章
可哀想だとは「思う」
可哀想なのは「分かる」
他人事じゃないとは「感じる」
という部分なんです。

あなたは、可哀想だと「思わない」わけではない。思っている、感じている、だけど表面に現れるとき、その部分が隠れてしまっているのです。

この、あなたが今まで表現出来なかった感情、それが「共感的理解」というEQなのです。

これから、あなたが「わたしって冷たいな」と感じたら、こんなことをしてみてはいかがでしょうか?

自分が冷たいなと感じた反応を△△の部分に当てはめ、「○○だけど△△だ」という文章を作るのです。
そして「○○だけど△△だ」の「だけど」の前の○○の部分を強く意識してみてください。

きっと○○の部分には、あなたが冷たくない証拠が刻まれているはずです。

あなたは「共感する力」を持っていないのではなく、心の中で隠れてしまっているだけです。
あなたが気付いてあげれば「共感する力」はきっと、あなたの中にあることを感じ取れると思います。
| EQトレーニング講座 | 12:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
[8]自分に自信がないと感じることはありますか?
今まで、上手くいったことは何もなかったような気がする
何かしようと考えても、きっと失敗するような気がする
この先も、何かができるとは思えない

これらは全て、自分に自信がないということです。
「自分に自信がない」と言えば、なんとなくニュアンスは伝わります。
しかし、そう言ってるあなた自身も、曖昧な意味でこの言葉を使っていませんか?

つまり「自信がない」とは何に対して自信がないのでしょうか?

もしかしたら、この「自信がない」の中身を自己分析することで、
あなたも自分に自信が持てるようになるかも知れない、
そんな可能性について考えたいと思います。

EQには「自信」に関連すると思われる素養がいくつもあります。

落ち込みやすい方ですか?(抑鬱性)
心配性ですか?(特性不安)
なにかにプライドを持っていますか?(セルフ・エフィカシー)
石橋は叩いて渡る方ですか?(楽観性)
               ※( )内は、(株)EQジャパンによる分類法


EQジャパンの用語は専門的なので「鬱」「不安」などという表現がありますが、あまり気にしないで下さい。

「抑鬱性」は、特に過去に対して否定的、悲観的に捉える傾向を表します(プラスに出た場合)
「特性不安」は、緊張感を持ちやすく、現在や将来について考えると消極的、悲観的になる傾向を表します(ブラスに出た場合)
「セルフ・エフィカシー」は、過去の成功体験と密接な関連があり、「自分は上手くやり遂げられる」という信念の強さを表します(マイナスにでた場合)
「楽観性」は、いわゆる「ポジティブシンキング」。失敗や否定的な出来事でさえも、潔く割り切れるかどうかという傾向を表します(マイナスに出た場合)

この4つのいずれの要素も「自信が持てない」に結びついていることはご理解いただけると思うのですが、よく比較してみると、その対象や方向が微妙に異なることにも気付きませんか?

「抑鬱性」「セルフ・エフィカシー」は特に過去に対して。
「特性不安」「楽観性」は現在と将来に対して現れる傾向です。

ここではEQI(EQ行動特性検査)が出来ませんので、とても簡単なチェック項目を用意しました。
特に自分に当てはまると感じられる箇所をチェックしてみて下さい。

過去に対して自信がない
「抑鬱性」
□クヨクヨといつまでも悩む
□自分の失敗をなかなか許せない、忘れられない
□ちょっとしたことですぐ落ち込む

「セルフ・エフィカシー」
□自分のキャリアやスキルは大したことがないと思う
□高い目標だとやる前から出来ないと思う
□自分はつまらない人間だと感じる

現在・将来に対して自信がない
「特性不安」
□また次も失敗するような気がする
□人見知りである
□責任のある仕事や役割から逃げたいと思う
□緊張して、自分らしく振る舞えない

「楽観性」
□気持ちの切り替えが苦手
□あきらめが悪い
□何かを初めてもすぐ意味がないと思ってしまう

解説
この4つの要素は全て「セルフ・コンセプト」すなわち、感情をコントロール出来ているかどうかを捉えようとするものです。
「抑鬱性」「特性不安」は自分を知る力を表します。
このいずれかにチェックが多く付いたあなたは、直ぐに自分を責めてしまうところがありませんか?

「セルフ・エフィカシー」と「楽観性」は、やる気を出す力を表します。
このいずれかにチェックが多く付いたあなたは、何をやっても(言っても)ムダだと感じることが多くないですか?

自分を責めてしまうあなたには、自分を信じる力が足りません。
何をやってもムダだと感じてしまうあなたには、可能性への気づきが必要です。

4つの要素に共通するセルフ・トレーニング法は、実は同じです。
自分自身について、かつて自分に出来たこと、かつて出来なかったこと、今自分に出来ること、今出来ないことを、実際にノートに書き出していくことです。

きっと過去、出来たこと、今出来ることが0ではないはずです。
仮に0のあなたは、出来ることに目をつぶっている(気付こうとしていない)と思います。

そして0ではないなら、あなたにも出来ることがある、過去も出来たのだと、まず自分を認めてあげて下さい。

自分に自信を持てないあなたは、わずかな失敗や、ちょっとした能力の不足を理由に「だから自分は全然だめだ」と拡大解釈してはいませんか?

出来たことが0ではない、しかし10ではないから「ダメ」なのではなくて、1出来ることをまず認めましょう。

そして今ノートには、あなたが出来なかった、今出来ないと感じている事柄が書き出されています。
その一つ一つが本当に出来なかったのか、そしてこれからも出来ないのか、充分に疑ってみて下さい。

つまり、出来なかったのではなく、やらなかった、取り組まなかっただけではないかと。
今出来ないと感じていることも、やろうとしていない、取り組もうとしていないだけだと。

あなたが気付いたこの「できないのではなくやっていないだけ」だという気づき、これがあなたの「自信がない」の真相だと感じられませんか?

こうして、やろうとしていない自分を見つめられれば、逆に何をすれば自信が持てるのか、もう答えは目の前にあると考えられるのです。
| EQトレーニング講座 | 22:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
[最終回]EQの可能性と限界
全8回のEQトレーニング講座、いかがだったでしょうか?

EQは本来、EQI(行動特性検査)を用いてあなたの行動特性を総合的に把握し、結果をプロフィラーと共有し、望むべき姿をゴールとして共に取り組むのが、理想的なプロセスです。

しかし実際にEQIを受けるには料金もかかりますし、EQが実際どんなものなのか不安な方もいらっしゃるようなので、分かりやすくもかみ砕いて、誰でも直ぐに試せるようなEQトレーニング法を書いてみようと思ったのがこの連載の動機でした。

したがって、複雑化するのを避けるためにあえて解説しなかった点、省いた点があったことをご了承下さい。

さてEQは、心理学的には「ソーシャルスキル」の一分野に属するものだとわたしは考えます。
EQを測定するEQIは、クライエントのソーシャルスキルを測る、非常に有効な検査方法だと思うのですが、EQのみをもってして、カウンセリングや心理療法とする理論や技法は日本ではまだ確立していません。
(開発元のEQジャパンは、そういう方向性や可能性を示していません)

EQがIQの対比として語られることが多いことも含め、このあたりがEQの限界、と言えるかも知れません。

しかし見方を変えれば、EQはセルフ・コーチングには最適なツールであるとも言えます。

人は誰もが何らかの問題を抱えて生きています。
ときとしてそれは病を発症し、そこに至らないまでもストレスや心の痛みとなって表面化します。

人々のストレスや悩みとどう向かい合っていくか、どう解決していくか、援助する者として日本にも多くのカウンセラー・セラピストが存在していますが、カウンセリングが未だ一般化していないこの日本の現状は、カウンセリングの門を叩くこと自体が非常に困難なのが現実です。
そして、カウンセラー、セラピストは、相談者がアクションを起こさない限り、何もできないのです。

そのために一部のカウンセラー・セラピストは、セミナーを開催や著作を通してセルフ・カウンセリングの啓蒙に努めているようです。
セルフ・カウンセリングが切っ掛けとなり、自己変容の援助となれば、これは確かに効率的で効果的だと思われます。
しかしわたしが残念に感じるのは、特にセルフ・カウンセリング関連のセミナーでは、その場その時にカタルシスが得られることに重点がおかれ、大切な以後の継続についての解説が不足していると思われる点です。
(「いつも前向きに」と言われても、それが出来ないから苦しくなると思うのです)

ストレスや悩みを解決(自己変容)するには、絶対的に具体的な行動が不可欠です。
ではどうやって自分だけで変容へのアクションを起こすのか?と言う点に関して、従来のセルフ・カウンセリング手法では、曖昧な提案しかできません。

EQはソーシャルスキルという心理学の一部分しか捉えられませんが、あえて述べれば、ストレスにしろ悩みにしろ、そのほとんどか人間関係から発生するのですから、ソーシャルスキル=人とどう接していくのか?という捉え方は、セルフ・カウンセリングの第一歩として、非常に有効なのではないかと考えられるのです。

わたしがこの講座で取り上げた全てのテーマは、深く掘り下げれば、いずれも人の本質に到達するデリケートな問題です。
そのデリケートな問題を、あまりにシンプルに解説したことに関して、諸先輩方からはお叱りを受けるかとも覚悟しております。

しかし上でも述べた通り、カウンセリング・心理療法への認知度が未だ低いこの社会で、カウンセリングの入り口として、またはセルフ・カウンセリングの切っ掛けとして、EQに注目する意味はけっして低くないとわたしは考えます。

6回目でわたしは、わたし自身が取り組んだトレーニングについて語りました。
けっして難しいトレーニングではありませんでした。
また、自己の真相心理に入り込み、自己と対話するなどという高度な分析をしたわけでもありませんでした。

わたしが行ったことはただ一つ
EQの24要素の中の「社会的自己意識」を少しだけ強く意識しただけです。
人からどう見られたいか?ただそれだけのことで、わたしを取り巻く世界そのものが劇的に変化しました。

EQは外側から人間の本質にアプローチします。
それは例えば、こんなことと同じなのです。
・オシャレをすると足取りが軽くなる、
・昇進するとやる気が湧く
・笑うとスッキリする
・美味しい物を食べると幸せになる

EQはいわば、このように外的要因を自ら用意することなのです。
そしてこれこそが、EQの限りない可能性だとわたしは信じるのです。
| EQトレーニング講座 | 12:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
自分への癒しの試み[01]-父の記憶
「自分への癒しの試み」は、わたし尾内がずっと心に抱え続けてきた問題にどう振り回されてきたか、そしてどう解決していったかを出来るだけ正直に自己開示する物語です。
同時に、可能な限り冷静な分析を加え、セルフカウンセリングとは何かを感じ取るヒントにしたいとも考えます。
--------------------------------------------------------------------
ずっと逃れられないもの、
それはやっぱり生まれ育った家のこと。

家、というのは家族のこと。
父と母と兄と僕がいた家の、まずは父のことから語りはじめようと思います。

とても幼い頃の記憶は、断片的ながらも誰もが覚えているものなのではないでしょうか?
僕の記憶の中にも、父が大声で怒鳴っていて、母が泣いていて、
幼児らしい自分も泣いている情景が今も残っています。

その時、母は、荷物をまとめていたような気がする。
出て行け、出て行く、そんなやりとりも記憶にある。

幼児期の僕は両親と同じ部屋で寝ていました。
だからそれが一回だけの記憶なのか、
いくつもの似たような記憶が混ざり合ったものなのか、
それは今となっては判然しないのですが。

ただ、亡くなってから発見された母の日記を信じるなら、
父の言葉の暴力は結婚して直ぐ、
5歳上の兄が生まれる前から始まっていたらしいのです。

ことある毎に父は母に「出て行け!」と言ったとのことですが、
失笑を禁じ得ないのは当時の我が家は母の名義だったということです。

だらしのない父でしたが、そのだらしなさ故に母に依存せざるを得ず、
その劣等感が増幅して母にぶつけられたのかもしれません。

自分が生まれる前の両親のいざこざは、一見わたし本人には無関係なようですが、
僕は母の残した日記により、実に多くの気づきを得ました。

「自分を知るとは自分の存在を位置づけること」
とも考えられると思います。
  
よくあるケースとして、血族の中の存在位置が強烈な呪縛となって、
自由に生きられないと感じる人が少なくないと聞きます。
しかし家族というしがらみ、伝統、家柄を気にする必要のまったくなかった僕は、
とても身軽で、自由で、ありがたい環境だとはっきり認識していました。
(定期的な親類の集まりなどもなく、冠婚葬祭の参加も強要されなかった等)

ところが後に思い至ったのは、その「どうでもいい家系」が逆に、
僕の自己存在を「いいかげん」にしてしまったのではないか
ということです。

  それは長い間、僕にとって両親とは
「許すか許さないか」で計られる対象でしたかなかったいうことなのでした。

父は酒乱でした。
別に珍しくもないのかも知れないですが。

父は家ではほとんど飲まないのですが、いったん出掛けると、
必ず(本当にかならず)酒乱になって帰ってきました。

少年時代になると、父は恐怖の対象でした。
父は大声で叫びながら帰ってきたので、
何分も前から父が帰宅することは分かったのです。

「コンチクショー!」
「バカヤロー!」
「死んじまえ!」
何が気にくわないんだか、そう叫びながら歩いて帰ってくるのです。

恐怖がやってくる。
鬼が帰ってくる。
恐ろしい咆哮がだんだんに近づくにつれ、僕の身体は凍り付きました。

僕は、父の声を遠くに聞き取ると、布団に潜り込んで、
どうか僕の部屋には来ないでくれ、
酔いつぶれてそのまま寝むってくれと祈り続けたのでした。
| 自分への癒しの試み | 17:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
自分への癒しの試み[02]-憎悪を手に入れて
父は暴力は振るいませんでした。
だから、我が家は最悪ではない、
最低ではないと信じられます。

しかし、虐待がなかったから問題にはならないのではないか?
とは、自分としては絶対的に納得いかないのです。

酔った父は、僕の枕元に来ると決まって僕に呼びかけます。
寝たふりを続けても、執拗に呼びかけます。
そして観念して返事をしようものなら、こう言うのです。
「早く寝ろ」と。

お前が起こしたんだろ?
お前が来なければ寝てたんだよ!

言ったところで始まりません。
僕は何時間も父の繰り言に付き合わされることになるのです。
(それは脈略のない誰かに対する不満や罵声でした)

やがて兄が、高校を卒業して東京の大学に通うために家を出ました。
特に話したことはないのですが(というか中学生になったばかりの少年に、兄弟で父親について語り合う術などありませんでした)
兄は父親が嫌いで家を飛び出すんだと信じていました。

僕は心の中でエールを送りました。
「こんな家、飛び出しちゃっていいんだよ。僕も行くから。
兄貴はこの家のことなんて忘れちゃえ!」

しかし、兄がいなくなってからこそが、父の酒乱に怯える日々の始まりだったのです。
とうとう母も限界に達したのか、父が飲みに出掛けたと感づくと、
店を早めに閉めて友達と出かけてしまうようになったのです。
(母は小料理屋を営んでいました)

必然的に、父は僕のところにしか来なくなります。
母がいないと怒って、暴れて玄関を壊したこともありました。
電話機を引きちぎって放り投げる。
テーブルやコタツを破壊する。

人に暴力振るわなかったのは不幸中の幸いですが、
家族に暴力振るったら、それはもう「人」じゃないでしょう。

どうしてもイヤで、父が部屋に来る直前に、窓から逃げ出したこともあります。
あてどなく、パジャマに裸足で近所をさまよいました。
中学生の頃は、恐怖というより悲しみが心を支配していました。
自分の境遇が、哀れでならなかったのです。

やがて僕は、高校に進学しました。
ある程度、相対的に父のこと、自分のことを考えられるようになっていました。
高校で新たな友人を得、その交遊の中で様々な家庭の存在を知ることになりました。
経済的に深刻な家。
両親が家庭内離婚状態の家。
片親の家。
そこで知ったことは、ようするに僕は大して不幸ではないのだ、という知識でした。
しかし知識だけでは、僕の納得出来ない環境を劇的な変革してはくれません。

仮に僕が不幸でないにしろ、ろくでなしで酒乱の父は存在をやめないのです。
高校生になって、主体的に生きようと思ったとき、
僕は父の存在を底辺から否定するしかなかったのです。
恐怖や不安と決別するために
怒りと憎しみを以て。

  客観と主観は恐ろしいほど遠い関係です。
  様々な虐待の体験記録などを読めば、
  自分はなんとラッキーだったのだろうと感じられました。
  しかし、我が身をふり返ってみれば、
  そこには傷ついた子供が一人で震えているのです。
  この記憶を消し去ることはできない。
  というか、可哀想でならない。
  大人となり、不自由のない生活を営み、
  地方都市では充分な社会的地位も得ながら、
  だけど記憶の中の子供はずっと怯えているのです。

  この大人の自分と震えている子供の自分とを和解させない限り、
  この問題はいつまでも自分の傷であり続けるしかないのです。

  やがて大人になっても僕は、震えている少年を思い出すと、
  たちまち「その時」の自分と同化してしまいました。
  同化して、心を充たすのは怒りと憎しみです。
  「怒りと憎しみ」で父を否定し、
  僕はかろうじて自分を律していたのです。
| 自分への癒しの試み | 17:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
自分への癒しの試み[03]-父からもらったもの、僕がほしかったもの
父は母と出会った頃、町工場に勤めていました。
その頃、母の兄が飲食業を始め、
兄弟結束のためなのか、戦略上のことなのか、
弟たちに暖簾分けをし始めたのです。
その話は、父にも持ちかけられました。
母の日記によると、母は反対だったらしいのです。
現実的な母は、
水商売より会社勤めのほうが間違いないと考えていたようです。

しかし、元々父は会社勤めは合わなかったらしく、
母が止めるのも聞かずに工場をやめ、水商売の道を歩き始めたのでした。

ちょうど高度成長時代にも突入しました。
商売はそこそみ順調だったようです。

しかし父は、商売の才能があるどころか、
致命的な性格の問題点が露呈し始めたのです。

それが酒乱、そして賭け事、そして、女でした。

父は常連客や板前としばしば賭け麻雀や花札に興じ、
結果、常連客とはケンカし、板前もやめていくことが度重なったのです。

仕事だって適当です。
僕は小学生の頃、父の車に乗せられて、
競馬や競艇に連れて行かれたことをよく覚えています。

女性問題に関しては、後におぞましい出来事を知るのですが(後日述べます)
母の日記によると、酔って帰った父は、
どこの誰々と遊んだとか、一緒に飲んだとか、
あとはもっと聞きたくないことまでを、
寝ていた母を起こしてくどくど説明したのだそうです。

妻としての自尊心など、もはや崩壊していたと察します。
(母についてはまた別途)

いい加減に仕事をしていた父のせいで家計も厳しくなり、
やがて母が自宅を増築して、小料理屋を始めることになったのです。
それは僕が小学5年の時でした。
だから数年間でしたが、両親が別々の店を営んでいたのです。

父はやがて、店を畳みます。
(というか、経営が成り立たなくなったのですが)
そして長距離トラックの運転手となりました。
しかしやがて勝手にそれも辞めると、母の店を手伝い、
そのうちそれもやらなくなり、最終的にどうなったかと言えば、
父は母に養ってもらうようになったのです。

養ってもらってお金をせびって、
それでギャンブルしたり飲んで酒乱になって破壊活動をしたり、
それが、僕の父でした。

  僕が生まれる以前のことは、母から聞かされました。
  しかし小学生以降の出来事は、全て僕自身が見て、
  聞いて知っていたことです。
  休日、競馬や競艇に連れられていったことは、僕も男の子だから、
  疾走する馬やボートを見るのは楽しかったですから、
  その時はなんとも思わなかったのです。

  実は父は、素面のときはとても次男の僕を可愛がっていたようです。
  母の日記にも、それだけが救いだと書いてありました。
  しかしこの「可愛がる」がとても問題なんだと思うのです。
  可愛がられたから親に慕うのか、親を尊敬出来るのか?
  と問えば、それは次元が異なると思うのです。

  僕は父に可愛がられた、可愛がってくれた父を今は否定しませんが、
  その行為、さらには彼の普段の行い、発言に、
  当時からまったく敬意を抱けなかったのは
  間違いのない事実なのです。

  「父」とはつまりなんなのだろう?
  父だけじゃないですね、「親」とは何なのだろう。
  子供にとって最低限、絶対に必要なのは「安心」だと思うのです。
  色んな意味を含めての「安心」です。
  可愛がるは行為する側が主体であり、
  安心を受け止めるのは、あくまで子供が主体、とも言えると思います。

  どんなに可愛がったと言われても、実際に可愛がられても、
  僕は父に「安心」を見いだせなかったということ。
  好き嫌い以前です。

  父親たり得なかった僕の父の問題の本質は、
  まさにここにあったのだと思うのです。
| 自分への癒しの試み | 19:23 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[04]-父の生きる価値
あれは高校3年の時のことです。
僕は音楽部に所属していました。
やっていたのはソロのポップスで、あまり活動はしませんでしたが、
文化祭では時間をもらって、自作の歌を歌ったりしていました。

ある夜、いつものように父が酔って帰ってきました。
珍しく、最低の状態にまでは陥っていませんでした。
とはいえ、いつものように、何のことだから分からない悪口やら自慢やらを話し始めたのです。
適当に相づちを打って聞き流していたのですが、
ふと気になることを言っていることに気が付いたのです。

要約するとこういうことでした。

  最近、知り合いの女性の家に行った。
  彼女は離婚して、女手一つで娘を育てている。
  ふと娘の机に置いてある写真立てが目にとまった。
  気になって見てみると、
  それはギターを弾きながら歌っている息子の写真だった。
  俺(父)は、とぼけて母親に「この写真、彼氏かい?」と聞いてみた。
  母親は「娘が憧れている先輩」だと教えてくれた。
  俺の子供に人気があることを知って、俺はとても嬉しかった。

僕は愕然としました。
その娘が誰か?という意味ではありません。
大体において父が仕事や表向きの要件で、
一人娘のいる母子家庭に上がり込むことなど考えられないのです。

しかも(狭い家なのかも知れませんが)、娘の机の近くにいて、
机の上を覗き込めるほど気心の知れた関係としか思えないのです。

そうです、これは父が不倫相手の家に行ったときの話なんです。
そして不倫相手の娘が、僕の写真を飾っていたという出来事だったのです。
それを自慢そうに語る父。
反吐が出そうでした。
思い切り突き飛ばしてやりたかった。
殴り殺してやりたかった。
しかし父は、僕よりはるかにたくましい身体を持っていました。
敗北感と惨めさを噛みしめながら、
僕は父が満足して去るのを待つしかなかったのでした。

結局、その娘さんが誰だったのかはとうとう分かりませんでした。
(知りたくもなかったのですが)
当時僕の後輩なら、今は43、4です。
幸せになっていて欲しいと願うしかありません。

いったい父が、どれだけ不倫をしていたのかは知りません。
父は頭髪も薄く、小柄で、僕から見ると、
とてもじゃないけど女性に好かれるタイプではないと思うのです。
(この頭髪の薄さが彼のコンプレックスで、やがてそれが、彼の人生最大の失敗を招くことになるのです)
ところが父には、何故かいつも女性の影がありました。

高校2年まで僕は、プレハブで作った離れを勉強部屋としていたのですが、
プレハブとは言っても掘っ立て小屋みたいなもので、
冬、あまりに寒いので母屋の以前、兄が使っていた部屋に引っ越したのです。

すると父は、それじゃ俺が使うと、そのプレハブに布団などを持ち込みました。
なぜ、あんな寒い部屋に?
その理由はやがて判明しました。

ある夜、父は居間でテレビを見ていました。
そこに電話がかかった来たのです。
僕が出ると女性の声で「お父さんはいる?」と言いました。
父は電話を替わると、慌てて離れに向かったのです。

やがて離れから、女性の声が聞こえてきました。
好奇心に駆られ、僕は聞き耳を立てました。
つまりこういうわけだったのです。

  女性は一人でうちの離れに上がり込み、父が来るのを待っていました。
  しかし一向に来る気配がないので、一旦外に出て、
  公衆電話からうちに電話をかけてきたというわけだったのです。
  (当時は携帯電話など、影も形もない時代でした)

わずか数メートル離れた敷地内では、小料理屋で母が立ち働いているのです。
その同じ時間に、不倫相手を自宅に招き入れていたのです。
そのための、プレハブへの引っ越しだったのです。

業の深さ、というのか、たんにだらしないということなのか、
呆れるを通り越して、死んで欲しいと心から願いました。

こんな家にはもういられない。
自分の将来とか未来のためではなく、
とにかくこの家を出るしかないと強く思ったのでした。
| 自分への癒しの試み | 22:56 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[05]-鏡の中の父
高校を卒業して、僕も東京に向かいました。
何かがしたかったわけではない、
何もしたくなかったから。

とにかくあの家から離れること、
それだけが僕の動機の全てだったのかもしれません。
(しかしそれは単なる衝動だったわけです)

暗いトイレが共同の安いアパートを借り、楽そうなアルバイトを探して、適当に働いて生活費を手に入れました。

  今ならフリーターという便利な言葉がある。
  しかし当時の僕の状態は「プータロー」もしくは「アルバイト生活者」
  当時はバブル黎明期でもあったわけですから、
  はっきり言ってその恩恵を受けずに生きる自分は、
  人生の落伍者そのものだったと今でも感じます。
  それは当時もある程度、自覚があった。
  自覚があったから余計に、僕は卑屈になっていったのでした。

週に一度は酔った父から電話がありました。
適当に相づちを打つこともありました。
一方的に切ったこともありました。

この頃の父は、単に迷惑な存在に過ぎなくなっていました。
迷惑だけども対岸の火事、みたいな感じで。
もうどうでもいい。
家がどうなってもいい。
当時は本当にそう思っていました。
何故なら一生帰るつもりもなかったから。
そういう意味では適度な距離感が保てていた時期だったと思います。

ただ、父のせいにするつもりはありませんが、
この頃の僕は、未来に絶望しか予感できない、
廃退的で快楽主義的な生活をただ繰り返す人間になっていました。

いつかここ(東京)にいられなくなったら、一切の関係を断ち切って、
北海道か九州の小さな町で貧しく生きる、老いた自分の姿がぼんやりと見えました。

  何かに絶望しても、失敗しても、
  僕には逃げ帰る場所はないのだと思っていたのです。
  逃げ込む場所、避難所、安心出来る場所、
  その存在が、人の自立の基盤なのではないか?
  今はそう感じられてなりませんが。

上京して6年、僕は24になっていました。
ある日、母から電話が入り、父が倒れたというのです。
本心、それはどうでもいいこと、迷惑なことなのだけど、母が取り乱していることもあり、
僕はバイトを休んで帰省しました。

母に詳しく経過を聞いて、僕は心配するとか哀れだと思う以前に、
なぜ、このまま死ななかったのかと本気で思いました。

すでに仕事もしないで母に養ってもらっていた父には、
どうしても叶えたい望みがあったのです。
それはカツラです。
髪が薄いことをとても気にしていた父は、カツラが欲しくてならなかったのです。
そして、一円も稼いでいないというのに母にねだり続け、
とうとうカツラを買わせたのでした。

しかし、それが彼にとっては不幸の始まりでした。
カツラが届いた日、早速カツラを装着し、意気揚々と飲みに出掛けた父は、
嬉しかったんでしょうね、たぶんいつも以上に飲み、
翌朝、身体が言うことを聞かず、動けなくなっていたのです。

脳梗塞でした。

病院では24時間家族が付き添うようにと言われました。
母にはしかし、毎夜仕事があります。
母に懇願されて、僕はバイト先に電話で、しばらく休ませて欲しいとお願いしました。
そして奇妙な、僕の付き添いの日々が始まったのです。

僕は昼間、母と交替する時間以外をずっと父のベッドの傍らで過ごしました。
食事の補助、排尿排泄、点滴の確認など、今でも不思議なのは、
なんでこれほど憎んでいた父の介抱ができたのか、今もって自分でもわからないのです。
(やはり心の底では親を大切に思っていた、なんて感想は抱かないで下さい)

そういう世話をする以外の時間は、持ち込んだ文庫本を読んだり、
スケッチブックに窓から見える風景などを描いたりして過ごしました。
夜は、ベッドの傍らに、床に直接マットを敷いて寝ました。
そんな生活を2週間くらい続けたと思います。

しかしこのときの経験が、僕に今までなかった感情を抱かせました。

僕は、ベッドに横たわり、話すことも出来ず、身体も自由にならない父の姿に、未来の自分の姿を見出してしまったのです。

今この時のことしか考えず、定職にも就かず、
バイトを何度も替えながら遊び呆けている僕の、
間違いのない未来の姿がそこにありました。

その情景が浮かんだときに感じたのは、
限りのない恐怖でした。
それは、絶対に知りたくない、見ようとしてこなかった、
未来が見える鏡、そのものだったのです。

  この経験がなかったら、果たして今の自分があったのかどうか
  まったく自信が持てません。
  たぶん僕は、まったく違う人生を歩いていたことでしょう。
  そしてそれは、薄汚れてじめじめした、
  孤独な人生だったと思うのです。

  それ故に、父の存在が今の自分を作り上げている、
  と感じることもあります。
  そこまで父を否定する気持ちは、当時も今もありません。

  ただこの経験は、僕の自立性にのみ関係し、
  このことによって父への思いが変わったわけではありませんでした。

ではなぜ、憎む父の介抱が出来たのか?
それは単に、
母一人では介護は不可能だと、観念しただけだったのだと思うのです。
| 自分への癒しの試み | 21:07 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[06]-呪縛を解く鍵
その後父は、リハビリ病院でのリハビリを経て、
自宅に戻ってきました。
リハビリをした、と言っても一ヶ月もその病院にはいなかったのです。
わがままな父は、ろくにリハビリにも取り組まず、
とにかく家に帰りたいの一点張りで、
諦めた母が、帰宅を認めただけのことだったのでした。

倒れた父に未来の自分を見出してしまった僕は、
東京に戻っても、
一度感じてしまった恐怖感を拭えなくなってしまっていました。
とてもじゃないですが、遊んでいられません。
定職に就いていないことも、たまらなく不安でした。

母には、自分だけじゃ面倒見られないから帰ってきて欲しいと
何度も懇願されました。
そして僕は、とうとう帰郷することにしたのです。
表向きは、父の介護のため。
でも実際は、東京でこのまま生きていくことが
怖くなってしまったからでした。

そして僕は、アパートを引き払い、再び実家に帰ってきました。
心は敗北感でいっぱいでした。
どう言いつくろおうが、
二度と帰らないと固く誓った実家に戻ってきてしまったのです。
敗北感故に東京から引き上げ、敗北感を積み重ねてしまったのです。

故郷の友人達は暖かく迎えてくれましたが、
この時期の僕は、快楽的に遊ぶことさえ出来ないほどの敗北感で、
無為に息をするだけの存在と、なんら変わるところがなかったのです。
(上京するとき送別会を開いてくれた友人達に「二度と帰ってこない」と宣言していたのですから、バツは悪かったです、とても)

結局、故郷、実家というものは、安心感のある場所だったのです。
実家に戻った僕は、かつてのプレハブ小屋に居を構え、
そして何ヶ月も仕事もしないで暮らしました。
たまに母の店を手伝う程度で。

やがて、東京で芝居をしていた古い友人が帰郷して、
地元で劇団を立ち上げました。
彼は僕に、一緒にやってほしいと言ってきました。
最初はやるつもりはなかったんです。
面倒だったから。
あの頃の僕は、能動的、ポジティブに動くことから
大きく外れた生き方をしていたから。
しかし根負けして、1年だけとの約束で、僕も芝居に参加したのです。

そこで今の妻と出会いました。
出会って、結婚を意識して、そこからようやく定職に就かなくてはいけない、
と思えるように気持ちが変わっていったのです。
(つまり僕は、定職にも就かず、妻の実家に挨拶に行ったのです。当然、ご両親は難色を示したそうです)

この一連の流れを整理すると、
結婚しようと思って、結婚するには最低限、定職に就かねばならない、
だから定職を得よう。
だったこれだけの動機だったのです。
当然、仕事なんかなんだってよかったのです、正社員であれば。
(東京でずっとバイトをしてきた当時の僕には、飲食業やショップ店員以外の職業というものが、実感出来なかったのでした)

芝居を一緒にやった友人が勤めていた会社に、
とても楽な仕事があると聞きました。
「楽」と聞いたら気になります。
結果、僕はその会社で面接を受け、無事採用されました。
それが今も勤めている会社なのです。

高校卒業後、一回も定職に就かなかった僕を
採用した当時の人事担当者もどうかと思いますが、
しかし世の中にはこういう不思議な縁というものがあるのです。
(何しろ今は、その会社の取締役なのですから)

しかし、介護を理由に帰郷した僕は、結局介護なんかしなかったのです。
しないまま、やがて結婚して、とうとう本当に実家を離れることになったのです。

退院後の父は、明らかに言動がおかしくなっていました。
いわゆる認知症と同じ経過です。
とはいえ、会話も出来るし、一人で出掛けることもまだ可能でした。

自分は定職に就き、結婚した者です。
初めて感じる安定感でした。
父は、東京にいた頃感じたのに近い、どうでもいい存在だったのでした。

やがて子供が生まれ、僕は3つ違いの女の子を2人持つ父親になりました。
仕事も順調でした。
古い友人からは「尾内は別人みたいだ」とよくからかわれるようになりました。
何でもポジティブに考えられるようになりました。
なんでもアクティブに取り組めるように変わっていました。

家族を持つ、この意識が、僕を180度違う人間に変えたのです。
仕事に情熱を注げたのも、家族のためでした。
特に二人の娘は、どうしようもないくらいに可愛くて、
休日にゴロゴロする時間ももったいなくて、
毎週のようにどこかに連れ出しました。
真夏でも、真冬でも。
妻が一緒じゃなくても全然平気でした。
お弁当も僕が作って持っていきました。
下手なおにぎりや炒めたソーセージをぱくぱく食べてくれる姿、
公園で熱心に遊ぶ娘達の様子を見ていられるのは、
信じられない、あり得なかったシーン、
そして、本当に涙が出そうになるほどありがたい時間でした。

  家族
  これが、家族、そして家なんだと理解できたのです。
  というか、僕はただ、
  「家庭」が作りたかっただけだったのかもしれません。
  自分で家庭を築くことでしか、
  僕は自分で結んだ呪縛を解きほぐせなかったのかもしれません。

  安心、避難所を自分で築き上げて、
  僕はようやくまっすぐ自分を
  見つめて生きられるようになったのだと思うのです。
| 自分への癒しの試み | 19:20 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[07]父であるだけで「家族」なのか?
父、それは迷惑な存在でした。

父が脳梗塞で倒れる何年か前から、母には「なんで離婚しないの?」と暗に離婚を勧めていたのですが、昭和一桁世代にとって、離婚はやはり勇気のいることだったようです。

気持ちはとっくの昔に切れたまま、父が脳梗塞となって、今更母の気持ちが傾くはずがありません。
僕は冷酷にも結婚という理屈で家を出ましたが、母は大嫌いな、そして憎んであまりある男と、一つ屋根の下で暮らし続ける定めだったのです。
しかも介護が伴いつつ。

「死んじゃえばいいのにね」
「車にひかれるのがいいよね、慰謝料もらえるし」
なんて会話を平然と交わす親子でした。

しかし生憎父は、身体だけは頑丈でした。
毎日午前午後と1時間ずつ散歩をし、大好きだったお酒もほとんど飲まなくなり、煙草もやめ、果実を多く取り、たぶん生涯で最も肉体的には健康な時期だったのではないでしょうか。

しかし、体力は保てても、脳は立ち止まってはくれなかったのです。
脳梗塞で倒れてから10数年後、父の脳はとうとう壊滅的な状況に達したのでした。

言動、行動が確実におかしくなりました。
父の場合はそれが独特で、まず「片付ける」「華麗にする」ということに対する理解が崩壊しました。今、目の前の汚れや散らかりようが、「汚れている」とか「散らかっている」と認識出来なくなってしまったのです。

他には食事に対する執着、偏向。
徘徊。理解しがたい言動などなど。

当時はまだまだ「認知症(その頃は痴呆症)」に対する世間の目も温かくありませんでした。
親の面倒は家族がみる。
それが当然だったのです(わずか10年前でもそんなものでした)

母は既に小料理屋を閉じていました。
一日中、言動のおかしな父といて、母はノイローゼになってしまいました。
どうにかしなければならない。
それは分かってはいます。
しかし僕との「同居」はまったくの想定外です。
母もそこに希望は見出していませんでした。

父の問題は「他の家族が補助するもの」なのではなく「如何に排除するか」に尽きていました。

冷たい、冷酷、非道・・・と思われるでしょうか?
非難は甘んじて受けますが、残念ながら母と僕は、彼が死ぬまで彼を許せませんでしたし、あの頃の二人の対応についても、後悔することは一切ありません。

「死ななかったあいつが悪い」のです。
「生き残ったあいつが悪い」だけなのです。

では「排除」するためにはどうすればいいのか?
もちろん「殺害する」なんて選択肢はまったく持っていませんでした。
(その次元までの憎しみや怒りではなかったことも分かっていたのです)

いくつか、老人専門の病院にも相談しました。
ある病院では深く理解してもらえました。
ただし、そこは遠いのです。
また入所の条件が「毎週、洗濯物を取りに来ること」だったので、
それがネックとなりました。

別の病院では逆にお説教されてしまいました。
「この程度なんだから家族で面倒見るべき」だと。

家族家族家族
人はそれで何でも片付けようとします。
しかし「家族」ってなんですか?
血がつながっていること以外には何も条件となり得ないのですか?

母と僕にとっては、少なくとも「あの男」は家族ではなかったのです。

父の営む飲食店が景気よかった頃、
「うちもそろそろ土地買って家を建てよう」といった母に、
「俺は車だけあれば家なんかいらない」と答えた男です。

土地は借地のままで、母名義の上物の家だけを父名義に変更しただけで、
一家の主としてビジョンや目標を一切共有してこなかった父を、
便宜上「父」と呼びますが、
どうして「家族」と思わなければいけないのでしょうか?

しかしその「家族」の排除に対して世間がまったく同情してくれないことに、
母と僕は深く絶望したのでした。

  この程度でもこんな感じなのです。

  DV、幼児虐待、ネグレスト、
  どうして防げなかったのかと事件のたびに話題となりますが、
  「愛」や「いたわり」「慈しみ」の存在しない「家庭」を認めない限り
  (言い換えれば「家庭」に対する幻想を捨てきらない限り)、
  悲惨な事件は一向になくならないと思うのです。

  夜道の一人歩きが「ある条件下」ではきわめて危険なように
  残念ながら家庭も「ある条件下」では絶望的に危険なことを
  知って欲しいと切に願います。
| 自分への癒しの試み | 20:57 | comments(0) | - | pookmark |