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カウンセリング未満

自らの生き様を心理カウンセラーの観点から綴った半生記、日常生活に役立つEQトレーニング講座・セルフカウンセリング講座など。
自分への癒しの試み[10]父からの解放(己の解放)
平成16年8月19日の深夜、
ホームから僕の携帯に一通の電話が入りました。

父の心停止の連絡です。

僕は妻に事情を告げると、母と兄に電話を入れ、一人ホームへと車を走らせました。
数日前、あまり時間は残されていないと、施設の医師から告げられていたのです。

ホームに到着すると、父はすでに別室に移され、医師による死亡の確認も済んだ後でした。
しかしそこには、まったく想像もしなかった光景がありました。

職員が泣いているのです。
父のために。
家族が介護を放棄し、家族が生きる価値なしと宣告した男のために、
何人もの職員が遺体にすがってすすり泣いているのです。
父の顔を優しくさすっている職員もいます。

僕は・・・
僕はどうだったのか?
僕はただ、父が死んだと認識しただけ。
ああ、とうとうね
やっぱりね
頭に中ではこれからの葬儀の手配とか、仕事の調整とかを考えていました。

今こうして死んだ父と接しても、
もちろん悲しくはない
まったく悲しみはない
家族なのに。

ところが家族でもない、仕事上の付き合いでしかないはずの職員が、
父を愛おしむように泣いている。

これは衝撃でした。

まず思ったのは、ここに自分はいちゃいけないんだ、という思い。
入れ替わりもあったでしょうが、5年間、触れ合ってきたのはここの職員であって、
ここでは僕こそが部外者のように感じられました。

次ぎに思ったのは、どうしてこんなひどいヤツのために泣いてくれるのか?という思い。
そんな男じゃないんだよ。
惜しまれるようなヤツじゃないんだ。
こんな男のために泣かないでくれ!

ようするに、職員の優しさが、たまらなく自分を責め立てるのです。
そう感じられたのです。

やがて、母が連絡した葬儀屋がやってきました。
慣れているので仕事が速いです。

事務的に弔意を述べ、あっという間に父をワゴン車に乗せてしまいました。

泣きながら見送る職員。
躊躇することなく走り出す車。

それはまるで家族から、何者かが非情にも、愛する肉親を連れ去ったかのような光景でした。
というか僕にはそう感じられたのです。

「終の棲家」
そうかあ、そういうことだったのかあ

僕が理不尽な対応をしている間に、
父はここで家族を得ていたのです。

父がろくでなしか極悪人かは、ここでは関係なかったのです。
終の棲家
そして家族なんだから。

父を憎んだ僕は単に父を失っただけですが、
父は憎まれようが復讐されようが、新たな家族を得ていたのです。

誰が得をして誰が損をしたか?

誰も得はしていない。
ただ単に、僕が一人で騒いで一人で苦しんで、
一人で醜い己を晒していただけだったのです。

僕の気持ちも思いも、父にはまったく関係がなかったのです。
解放されるべきは父ではなく、自分自身だった。

実家に向かう車の中で、様々な思いが交錯しました。
| 自分への癒しの試み | 12:50 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[09]和解の準備
平成16年に父が心不全で亡くなるまでの5年間で、
母と兄がホームを訪れたのは、たぶん5回にも満たなかったと思います。
(兄に関しては遠隔地に住んでいたので、仕方がないともいえますが)

僕は、母の代わりに(というか漠然とした呵責感に促されて)ほぼ毎月、顔を出しました。
顔を出したといっても、少しだけ話して直ぐに帰っただけのこと。
しかも「話す」といっても父は「帰ろ、帰ろ」と言うだけで、会話なんか成立したことがありません。

職員に、家族が全く知らなかった父の一面を聞かされたこともありました。
なんでも父は、頻繁に職員の手相を見たのだそうです。
しかも、ちゃんと一人一人違う見立てをするそうで、父は手相占いを趣味としていたのではないかと職員は言うのです。
母に確認しましたが、そんなことは初めて聞いたと。

想像するに、父はホステス相手に手相を占って気を惹いていたのではないか?
単に自分がもてるため。
その為だけに独学で覚えた趣味だったのかも知れません。
家族誰一人知らない趣味を。

しかしやがて、父は僕の顔もわからなくなってしまいました。
「徳二さん、誰に会いたいの?」
なんて僕が聞くと
「子供に会いたい」
などと答えるようになってしまったのです。
問いかけたのが、その「会いたい子供」なのにね。

唯一の取り柄だった健康な体も、頻繁に転倒するようになり、明らかに衰えが見え始めました。

この頃、とても割り切れない感情が僕を支配していました。

どうして父をホームに追いやったのか?
どうして同居や訪問介護などで対応しようとしなかったのか?
自分の心に問いかけてみれば、それは・・・
「復讐のため」です。

長年に渡り母を苦しめ、いい加減に生きてきて、
最後は勝手に脳梗塞になってしまった父が、
ようするに僕は許せなかったのです。

その父が離れたがらなかった家から引き離すこと、
そして孤独に苛ませることが僕にとっての仕返しだったわけです。

ところが彼は、全てを忘れてしまった。
母のことも僕のことも家のことも。

この状況下ではもはや、復讐は意味をなさないのです。
復讐は相手が復讐されていると認識して初めて溜飲が下がるのです。

この頃の気持ちは、とても複雑でした。
母のためにしたことが全て無駄になったような気がしたからです。

結果的には大好きな若い女性(ホームの職員)に囲まれた生活で、
彼にとっては幸せですらあるのではないかと思えました。

もっと仕返しがしたい、
もっともっと苦しめてやりたい。
そう思うのだけど、もはや苦しめる術がないのです。

何しろ彼にとって僕は「知らない人」になってしまったのですから。

この時期は、友人と酒を飲むと、必ずと言っていいほど僕は荒れました。
隠されていた攻撃性が表面化して、
理由をこじつけては、八つ当たりのように友人を標的にしてしまったのです。

相手をしてくれた友人達にとっては、いい迷惑だったと思います。
「思い出すと顔から火が出る」というのは、まさに今の自分です。

結局、気持ちが空回りしていたのだと思います。
「許さない」「復讐するんだ」という呪いに、僕自身が取り込まれてしまったといった感じでしょうか?

まさに「人を呪わば穴二つ」なのです。
僕は自分で自身の首を絞めようとしていたのでした。

そして亡くなる数ヶ月前、父は急速に体力が衰え始め、
とうとう一人で立つことすら出来なくなってしまいました。

かつて脂ぎって、憎たらしかったその顔は、
まるで悟りを開いた高僧にように枯れてしまいました。

憎しみはまだあるのか?
僕は自問しました。
まだ復讐したいと思うのか?
僕は自問しました。

許すとか許さないじゃない。
許さないと思っているのも自分だし、
許せるはずがないと考えているのも自分。

床に伏せる父を見下ろすのは2回目ですが、
もはや、父の姿に自分を投影することもありませんでした。

ここにいるのは「徳二」という人間で、僕とは別の人生を歩んだ者。
そこに僕の未来は一片たりとも垣間見られませんでした。

悟りきったように床に伏せる父を見つめ続けながら、
僕は何かを感じていました。
今まで味わったことのない「何か」

それは父との和解という名の「自分との和解」の予感でした。
| 自分への癒しの試み | 21:16 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[08]-鬼の所業
平成11年、ようやく父が特別養護老人ホームに入所しました。

母はずっと「あの人には無理だ」と思い続けていたのですが、意外やすんなりと父は入所を受け容れたのです。
(ただし認知症が進んで、入所=一時的な入院くらいにしか理解してなかったのかもしれませんが)

父は僕が仕事中に、施設から迎えの車が来て、それであっけなく家から去っていきました。
母からの電話でそれを知り、仕事の都合を付けて僕はホームに向かいました。

「特別養護老人ホーム」がどんなところなのか?
すでに僕も母も理解していました。
「終の棲家」です。
住民票すら施設に移すのです。

他の介護施設、例えば老人保健施設なら最大入所期間は3ヶ月とか決められています。
ところが特別養護老人ホームには「期限」がないのです。

それがどういう意味か、母とも何度も話しました。

他の施設なら、定期的に面会に来いだの洗濯物を持って返れだとかが条件としてあるのですが、特別養護老人ホームには、それがないのです。

家計は一としながらも、一切の関係を絶つことすら可能なのです。

これってつまり・・・
僕の脳裏に最初に浮かんだ言葉は「姥捨て山」でした。

  誤解のないように言っておきますが、
  特別養護老人ホーム=姥捨て山ではもちろんありません。
  事実、父の入手した施設の職員はとても優しく、
  建物も明るく開放的で、素晴らしい施設だと感じました。

  ただ、利用者を送り出す側の家族の心持ち次第では、
  どんな場所でも天国になり、地獄にもなりえるということなのです。

  おそらく毎週のように頻繁に訪れているような家族も見かけました。
  孫に囲まれて笑っている入所者も見かけました。

  高齢者施設は、どうしても家庭では介護が仕切れない、
  そういう家族の負担を軽減し、
  尚かつ高齢者に快適な生活をもたらそうとするものです。
  高齢者施設は本来そういうところなのです。

  ただ、家族がどういう思いで臨むかによって、意味が異なる。
  だから僕にとっては残念ながら
  「姥捨て山」に思えたというわけなのでした。
  繰り返しますが特別養護老人ホーム=姥捨て山
  と言ってるわけではないので誤解のないように。

ホームについて、名前を告げると、僕は事務所の奥の応接スペースに通されました。
やがて責任者らしき女性がやってきて、父は少し興奮状態なので、お会いにならない方がいいと思う、と告げました。

それから手続きです。
面白いなと思ったのは、元々申し込んであったのは確かなのですが、今日、突然ホームから電話があって、手続きらしいものをまったくしないまま父は連れてこられたのです。

だからこれから色んな書類を準備しなければならないのです。

結局、その日は父に面会することもなく、ホームを後にしました。

事務所の職員、施設の職員、優しい笑顔で物事も柔らかですが、
心の中でどう思っているかは推し量れません。

(こんな程度の痴呆で、父親を施設に入れるなんて・・・)
(お前が同居すれば介護なんて簡単なんじゃないか?)

何しろ僕としては「捨ててきた」気持ちなのですから。
やましい心があるのですから、些細なことから被害妄想に囚われます。

帰り道でも「捨ててきた」というイメージはどうしても拭えませんでした。
良心の呵責に耐えかねて
「良心?」
違いますよね、たんに「世間体」とか「見栄」ですよ。

だから自分を抵当化するために、僕は自分が「鬼」なんだと思わずにはいられなかった。

「こめんね。息子は鬼だから。いらなくなった親はこうして捨てるのさ」

泣きはしなかった。
泣くシーンじゃないし。
泣いて済む問題でもないし、泣く権利も泣く理由もないし。

ただ自分はとうとう凄いことをやってしまったんだなと、
やってやれない介護を放棄して、父を捨ててきたことは事実なのです。

「実の親」を捨てた息子

それはまちがいのない鬼の所業だったのです。
| 自分への癒しの試み | 08:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
自分への癒しの試み[07]父であるだけで「家族」なのか?
父、それは迷惑な存在でした。

父が脳梗塞で倒れる何年か前から、母には「なんで離婚しないの?」と暗に離婚を勧めていたのですが、昭和一桁世代にとって、離婚はやはり勇気のいることだったようです。

気持ちはとっくの昔に切れたまま、父が脳梗塞となって、今更母の気持ちが傾くはずがありません。
僕は冷酷にも結婚という理屈で家を出ましたが、母は大嫌いな、そして憎んであまりある男と、一つ屋根の下で暮らし続ける定めだったのです。
しかも介護が伴いつつ。

「死んじゃえばいいのにね」
「車にひかれるのがいいよね、慰謝料もらえるし」
なんて会話を平然と交わす親子でした。

しかし生憎父は、身体だけは頑丈でした。
毎日午前午後と1時間ずつ散歩をし、大好きだったお酒もほとんど飲まなくなり、煙草もやめ、果実を多く取り、たぶん生涯で最も肉体的には健康な時期だったのではないでしょうか。

しかし、体力は保てても、脳は立ち止まってはくれなかったのです。
脳梗塞で倒れてから10数年後、父の脳はとうとう壊滅的な状況に達したのでした。

言動、行動が確実におかしくなりました。
父の場合はそれが独特で、まず「片付ける」「華麗にする」ということに対する理解が崩壊しました。今、目の前の汚れや散らかりようが、「汚れている」とか「散らかっている」と認識出来なくなってしまったのです。

他には食事に対する執着、偏向。
徘徊。理解しがたい言動などなど。

当時はまだまだ「認知症(その頃は痴呆症)」に対する世間の目も温かくありませんでした。
親の面倒は家族がみる。
それが当然だったのです(わずか10年前でもそんなものでした)

母は既に小料理屋を閉じていました。
一日中、言動のおかしな父といて、母はノイローゼになってしまいました。
どうにかしなければならない。
それは分かってはいます。
しかし僕との「同居」はまったくの想定外です。
母もそこに希望は見出していませんでした。

父の問題は「他の家族が補助するもの」なのではなく「如何に排除するか」に尽きていました。

冷たい、冷酷、非道・・・と思われるでしょうか?
非難は甘んじて受けますが、残念ながら母と僕は、彼が死ぬまで彼を許せませんでしたし、あの頃の二人の対応についても、後悔することは一切ありません。

「死ななかったあいつが悪い」のです。
「生き残ったあいつが悪い」だけなのです。

では「排除」するためにはどうすればいいのか?
もちろん「殺害する」なんて選択肢はまったく持っていませんでした。
(その次元までの憎しみや怒りではなかったことも分かっていたのです)

いくつか、老人専門の病院にも相談しました。
ある病院では深く理解してもらえました。
ただし、そこは遠いのです。
また入所の条件が「毎週、洗濯物を取りに来ること」だったので、
それがネックとなりました。

別の病院では逆にお説教されてしまいました。
「この程度なんだから家族で面倒見るべき」だと。

家族家族家族
人はそれで何でも片付けようとします。
しかし「家族」ってなんですか?
血がつながっていること以外には何も条件となり得ないのですか?

母と僕にとっては、少なくとも「あの男」は家族ではなかったのです。

父の営む飲食店が景気よかった頃、
「うちもそろそろ土地買って家を建てよう」といった母に、
「俺は車だけあれば家なんかいらない」と答えた男です。

土地は借地のままで、母名義の上物の家だけを父名義に変更しただけで、
一家の主としてビジョンや目標を一切共有してこなかった父を、
便宜上「父」と呼びますが、
どうして「家族」と思わなければいけないのでしょうか?

しかしその「家族」の排除に対して世間がまったく同情してくれないことに、
母と僕は深く絶望したのでした。

  この程度でもこんな感じなのです。

  DV、幼児虐待、ネグレスト、
  どうして防げなかったのかと事件のたびに話題となりますが、
  「愛」や「いたわり」「慈しみ」の存在しない「家庭」を認めない限り
  (言い換えれば「家庭」に対する幻想を捨てきらない限り)、
  悲惨な事件は一向になくならないと思うのです。

  夜道の一人歩きが「ある条件下」ではきわめて危険なように
  残念ながら家庭も「ある条件下」では絶望的に危険なことを
  知って欲しいと切に願います。
| 自分への癒しの試み | 20:57 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[06]-呪縛を解く鍵
その後父は、リハビリ病院でのリハビリを経て、
自宅に戻ってきました。
リハビリをした、と言っても一ヶ月もその病院にはいなかったのです。
わがままな父は、ろくにリハビリにも取り組まず、
とにかく家に帰りたいの一点張りで、
諦めた母が、帰宅を認めただけのことだったのでした。

倒れた父に未来の自分を見出してしまった僕は、
東京に戻っても、
一度感じてしまった恐怖感を拭えなくなってしまっていました。
とてもじゃないですが、遊んでいられません。
定職に就いていないことも、たまらなく不安でした。

母には、自分だけじゃ面倒見られないから帰ってきて欲しいと
何度も懇願されました。
そして僕は、とうとう帰郷することにしたのです。
表向きは、父の介護のため。
でも実際は、東京でこのまま生きていくことが
怖くなってしまったからでした。

そして僕は、アパートを引き払い、再び実家に帰ってきました。
心は敗北感でいっぱいでした。
どう言いつくろおうが、
二度と帰らないと固く誓った実家に戻ってきてしまったのです。
敗北感故に東京から引き上げ、敗北感を積み重ねてしまったのです。

故郷の友人達は暖かく迎えてくれましたが、
この時期の僕は、快楽的に遊ぶことさえ出来ないほどの敗北感で、
無為に息をするだけの存在と、なんら変わるところがなかったのです。
(上京するとき送別会を開いてくれた友人達に「二度と帰ってこない」と宣言していたのですから、バツは悪かったです、とても)

結局、故郷、実家というものは、安心感のある場所だったのです。
実家に戻った僕は、かつてのプレハブ小屋に居を構え、
そして何ヶ月も仕事もしないで暮らしました。
たまに母の店を手伝う程度で。

やがて、東京で芝居をしていた古い友人が帰郷して、
地元で劇団を立ち上げました。
彼は僕に、一緒にやってほしいと言ってきました。
最初はやるつもりはなかったんです。
面倒だったから。
あの頃の僕は、能動的、ポジティブに動くことから
大きく外れた生き方をしていたから。
しかし根負けして、1年だけとの約束で、僕も芝居に参加したのです。

そこで今の妻と出会いました。
出会って、結婚を意識して、そこからようやく定職に就かなくてはいけない、
と思えるように気持ちが変わっていったのです。
(つまり僕は、定職にも就かず、妻の実家に挨拶に行ったのです。当然、ご両親は難色を示したそうです)

この一連の流れを整理すると、
結婚しようと思って、結婚するには最低限、定職に就かねばならない、
だから定職を得よう。
だったこれだけの動機だったのです。
当然、仕事なんかなんだってよかったのです、正社員であれば。
(東京でずっとバイトをしてきた当時の僕には、飲食業やショップ店員以外の職業というものが、実感出来なかったのでした)

芝居を一緒にやった友人が勤めていた会社に、
とても楽な仕事があると聞きました。
「楽」と聞いたら気になります。
結果、僕はその会社で面接を受け、無事採用されました。
それが今も勤めている会社なのです。

高校卒業後、一回も定職に就かなかった僕を
採用した当時の人事担当者もどうかと思いますが、
しかし世の中にはこういう不思議な縁というものがあるのです。
(何しろ今は、その会社の取締役なのですから)

しかし、介護を理由に帰郷した僕は、結局介護なんかしなかったのです。
しないまま、やがて結婚して、とうとう本当に実家を離れることになったのです。

退院後の父は、明らかに言動がおかしくなっていました。
いわゆる認知症と同じ経過です。
とはいえ、会話も出来るし、一人で出掛けることもまだ可能でした。

自分は定職に就き、結婚した者です。
初めて感じる安定感でした。
父は、東京にいた頃感じたのに近い、どうでもいい存在だったのでした。

やがて子供が生まれ、僕は3つ違いの女の子を2人持つ父親になりました。
仕事も順調でした。
古い友人からは「尾内は別人みたいだ」とよくからかわれるようになりました。
何でもポジティブに考えられるようになりました。
なんでもアクティブに取り組めるように変わっていました。

家族を持つ、この意識が、僕を180度違う人間に変えたのです。
仕事に情熱を注げたのも、家族のためでした。
特に二人の娘は、どうしようもないくらいに可愛くて、
休日にゴロゴロする時間ももったいなくて、
毎週のようにどこかに連れ出しました。
真夏でも、真冬でも。
妻が一緒じゃなくても全然平気でした。
お弁当も僕が作って持っていきました。
下手なおにぎりや炒めたソーセージをぱくぱく食べてくれる姿、
公園で熱心に遊ぶ娘達の様子を見ていられるのは、
信じられない、あり得なかったシーン、
そして、本当に涙が出そうになるほどありがたい時間でした。

  家族
  これが、家族、そして家なんだと理解できたのです。
  というか、僕はただ、
  「家庭」が作りたかっただけだったのかもしれません。
  自分で家庭を築くことでしか、
  僕は自分で結んだ呪縛を解きほぐせなかったのかもしれません。

  安心、避難所を自分で築き上げて、
  僕はようやくまっすぐ自分を
  見つめて生きられるようになったのだと思うのです。
| 自分への癒しの試み | 19:20 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[05]-鏡の中の父
高校を卒業して、僕も東京に向かいました。
何かがしたかったわけではない、
何もしたくなかったから。

とにかくあの家から離れること、
それだけが僕の動機の全てだったのかもしれません。
(しかしそれは単なる衝動だったわけです)

暗いトイレが共同の安いアパートを借り、楽そうなアルバイトを探して、適当に働いて生活費を手に入れました。

  今ならフリーターという便利な言葉がある。
  しかし当時の僕の状態は「プータロー」もしくは「アルバイト生活者」
  当時はバブル黎明期でもあったわけですから、
  はっきり言ってその恩恵を受けずに生きる自分は、
  人生の落伍者そのものだったと今でも感じます。
  それは当時もある程度、自覚があった。
  自覚があったから余計に、僕は卑屈になっていったのでした。

週に一度は酔った父から電話がありました。
適当に相づちを打つこともありました。
一方的に切ったこともありました。

この頃の父は、単に迷惑な存在に過ぎなくなっていました。
迷惑だけども対岸の火事、みたいな感じで。
もうどうでもいい。
家がどうなってもいい。
当時は本当にそう思っていました。
何故なら一生帰るつもりもなかったから。
そういう意味では適度な距離感が保てていた時期だったと思います。

ただ、父のせいにするつもりはありませんが、
この頃の僕は、未来に絶望しか予感できない、
廃退的で快楽主義的な生活をただ繰り返す人間になっていました。

いつかここ(東京)にいられなくなったら、一切の関係を断ち切って、
北海道か九州の小さな町で貧しく生きる、老いた自分の姿がぼんやりと見えました。

  何かに絶望しても、失敗しても、
  僕には逃げ帰る場所はないのだと思っていたのです。
  逃げ込む場所、避難所、安心出来る場所、
  その存在が、人の自立の基盤なのではないか?
  今はそう感じられてなりませんが。

上京して6年、僕は24になっていました。
ある日、母から電話が入り、父が倒れたというのです。
本心、それはどうでもいいこと、迷惑なことなのだけど、母が取り乱していることもあり、
僕はバイトを休んで帰省しました。

母に詳しく経過を聞いて、僕は心配するとか哀れだと思う以前に、
なぜ、このまま死ななかったのかと本気で思いました。

すでに仕事もしないで母に養ってもらっていた父には、
どうしても叶えたい望みがあったのです。
それはカツラです。
髪が薄いことをとても気にしていた父は、カツラが欲しくてならなかったのです。
そして、一円も稼いでいないというのに母にねだり続け、
とうとうカツラを買わせたのでした。

しかし、それが彼にとっては不幸の始まりでした。
カツラが届いた日、早速カツラを装着し、意気揚々と飲みに出掛けた父は、
嬉しかったんでしょうね、たぶんいつも以上に飲み、
翌朝、身体が言うことを聞かず、動けなくなっていたのです。

脳梗塞でした。

病院では24時間家族が付き添うようにと言われました。
母にはしかし、毎夜仕事があります。
母に懇願されて、僕はバイト先に電話で、しばらく休ませて欲しいとお願いしました。
そして奇妙な、僕の付き添いの日々が始まったのです。

僕は昼間、母と交替する時間以外をずっと父のベッドの傍らで過ごしました。
食事の補助、排尿排泄、点滴の確認など、今でも不思議なのは、
なんでこれほど憎んでいた父の介抱ができたのか、今もって自分でもわからないのです。
(やはり心の底では親を大切に思っていた、なんて感想は抱かないで下さい)

そういう世話をする以外の時間は、持ち込んだ文庫本を読んだり、
スケッチブックに窓から見える風景などを描いたりして過ごしました。
夜は、ベッドの傍らに、床に直接マットを敷いて寝ました。
そんな生活を2週間くらい続けたと思います。

しかしこのときの経験が、僕に今までなかった感情を抱かせました。

僕は、ベッドに横たわり、話すことも出来ず、身体も自由にならない父の姿に、未来の自分の姿を見出してしまったのです。

今この時のことしか考えず、定職にも就かず、
バイトを何度も替えながら遊び呆けている僕の、
間違いのない未来の姿がそこにありました。

その情景が浮かんだときに感じたのは、
限りのない恐怖でした。
それは、絶対に知りたくない、見ようとしてこなかった、
未来が見える鏡、そのものだったのです。

  この経験がなかったら、果たして今の自分があったのかどうか
  まったく自信が持てません。
  たぶん僕は、まったく違う人生を歩いていたことでしょう。
  そしてそれは、薄汚れてじめじめした、
  孤独な人生だったと思うのです。

  それ故に、父の存在が今の自分を作り上げている、
  と感じることもあります。
  そこまで父を否定する気持ちは、当時も今もありません。

  ただこの経験は、僕の自立性にのみ関係し、
  このことによって父への思いが変わったわけではありませんでした。

ではなぜ、憎む父の介抱が出来たのか?
それは単に、
母一人では介護は不可能だと、観念しただけだったのだと思うのです。
| 自分への癒しの試み | 21:07 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[04]-父の生きる価値
あれは高校3年の時のことです。
僕は音楽部に所属していました。
やっていたのはソロのポップスで、あまり活動はしませんでしたが、
文化祭では時間をもらって、自作の歌を歌ったりしていました。

ある夜、いつものように父が酔って帰ってきました。
珍しく、最低の状態にまでは陥っていませんでした。
とはいえ、いつものように、何のことだから分からない悪口やら自慢やらを話し始めたのです。
適当に相づちを打って聞き流していたのですが、
ふと気になることを言っていることに気が付いたのです。

要約するとこういうことでした。

  最近、知り合いの女性の家に行った。
  彼女は離婚して、女手一つで娘を育てている。
  ふと娘の机に置いてある写真立てが目にとまった。
  気になって見てみると、
  それはギターを弾きながら歌っている息子の写真だった。
  俺(父)は、とぼけて母親に「この写真、彼氏かい?」と聞いてみた。
  母親は「娘が憧れている先輩」だと教えてくれた。
  俺の子供に人気があることを知って、俺はとても嬉しかった。

僕は愕然としました。
その娘が誰か?という意味ではありません。
大体において父が仕事や表向きの要件で、
一人娘のいる母子家庭に上がり込むことなど考えられないのです。

しかも(狭い家なのかも知れませんが)、娘の机の近くにいて、
机の上を覗き込めるほど気心の知れた関係としか思えないのです。

そうです、これは父が不倫相手の家に行ったときの話なんです。
そして不倫相手の娘が、僕の写真を飾っていたという出来事だったのです。
それを自慢そうに語る父。
反吐が出そうでした。
思い切り突き飛ばしてやりたかった。
殴り殺してやりたかった。
しかし父は、僕よりはるかにたくましい身体を持っていました。
敗北感と惨めさを噛みしめながら、
僕は父が満足して去るのを待つしかなかったのでした。

結局、その娘さんが誰だったのかはとうとう分かりませんでした。
(知りたくもなかったのですが)
当時僕の後輩なら、今は43、4です。
幸せになっていて欲しいと願うしかありません。

いったい父が、どれだけ不倫をしていたのかは知りません。
父は頭髪も薄く、小柄で、僕から見ると、
とてもじゃないけど女性に好かれるタイプではないと思うのです。
(この頭髪の薄さが彼のコンプレックスで、やがてそれが、彼の人生最大の失敗を招くことになるのです)
ところが父には、何故かいつも女性の影がありました。

高校2年まで僕は、プレハブで作った離れを勉強部屋としていたのですが、
プレハブとは言っても掘っ立て小屋みたいなもので、
冬、あまりに寒いので母屋の以前、兄が使っていた部屋に引っ越したのです。

すると父は、それじゃ俺が使うと、そのプレハブに布団などを持ち込みました。
なぜ、あんな寒い部屋に?
その理由はやがて判明しました。

ある夜、父は居間でテレビを見ていました。
そこに電話がかかった来たのです。
僕が出ると女性の声で「お父さんはいる?」と言いました。
父は電話を替わると、慌てて離れに向かったのです。

やがて離れから、女性の声が聞こえてきました。
好奇心に駆られ、僕は聞き耳を立てました。
つまりこういうわけだったのです。

  女性は一人でうちの離れに上がり込み、父が来るのを待っていました。
  しかし一向に来る気配がないので、一旦外に出て、
  公衆電話からうちに電話をかけてきたというわけだったのです。
  (当時は携帯電話など、影も形もない時代でした)

わずか数メートル離れた敷地内では、小料理屋で母が立ち働いているのです。
その同じ時間に、不倫相手を自宅に招き入れていたのです。
そのための、プレハブへの引っ越しだったのです。

業の深さ、というのか、たんにだらしないということなのか、
呆れるを通り越して、死んで欲しいと心から願いました。

こんな家にはもういられない。
自分の将来とか未来のためではなく、
とにかくこの家を出るしかないと強く思ったのでした。
| 自分への癒しの試み | 22:56 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[03]-父からもらったもの、僕がほしかったもの
父は母と出会った頃、町工場に勤めていました。
その頃、母の兄が飲食業を始め、
兄弟結束のためなのか、戦略上のことなのか、
弟たちに暖簾分けをし始めたのです。
その話は、父にも持ちかけられました。
母の日記によると、母は反対だったらしいのです。
現実的な母は、
水商売より会社勤めのほうが間違いないと考えていたようです。

しかし、元々父は会社勤めは合わなかったらしく、
母が止めるのも聞かずに工場をやめ、水商売の道を歩き始めたのでした。

ちょうど高度成長時代にも突入しました。
商売はそこそみ順調だったようです。

しかし父は、商売の才能があるどころか、
致命的な性格の問題点が露呈し始めたのです。

それが酒乱、そして賭け事、そして、女でした。

父は常連客や板前としばしば賭け麻雀や花札に興じ、
結果、常連客とはケンカし、板前もやめていくことが度重なったのです。

仕事だって適当です。
僕は小学生の頃、父の車に乗せられて、
競馬や競艇に連れて行かれたことをよく覚えています。

女性問題に関しては、後におぞましい出来事を知るのですが(後日述べます)
母の日記によると、酔って帰った父は、
どこの誰々と遊んだとか、一緒に飲んだとか、
あとはもっと聞きたくないことまでを、
寝ていた母を起こしてくどくど説明したのだそうです。

妻としての自尊心など、もはや崩壊していたと察します。
(母についてはまた別途)

いい加減に仕事をしていた父のせいで家計も厳しくなり、
やがて母が自宅を増築して、小料理屋を始めることになったのです。
それは僕が小学5年の時でした。
だから数年間でしたが、両親が別々の店を営んでいたのです。

父はやがて、店を畳みます。
(というか、経営が成り立たなくなったのですが)
そして長距離トラックの運転手となりました。
しかしやがて勝手にそれも辞めると、母の店を手伝い、
そのうちそれもやらなくなり、最終的にどうなったかと言えば、
父は母に養ってもらうようになったのです。

養ってもらってお金をせびって、
それでギャンブルしたり飲んで酒乱になって破壊活動をしたり、
それが、僕の父でした。

  僕が生まれる以前のことは、母から聞かされました。
  しかし小学生以降の出来事は、全て僕自身が見て、
  聞いて知っていたことです。
  休日、競馬や競艇に連れられていったことは、僕も男の子だから、
  疾走する馬やボートを見るのは楽しかったですから、
  その時はなんとも思わなかったのです。

  実は父は、素面のときはとても次男の僕を可愛がっていたようです。
  母の日記にも、それだけが救いだと書いてありました。
  しかしこの「可愛がる」がとても問題なんだと思うのです。
  可愛がられたから親に慕うのか、親を尊敬出来るのか?
  と問えば、それは次元が異なると思うのです。

  僕は父に可愛がられた、可愛がってくれた父を今は否定しませんが、
  その行為、さらには彼の普段の行い、発言に、
  当時からまったく敬意を抱けなかったのは
  間違いのない事実なのです。

  「父」とはつまりなんなのだろう?
  父だけじゃないですね、「親」とは何なのだろう。
  子供にとって最低限、絶対に必要なのは「安心」だと思うのです。
  色んな意味を含めての「安心」です。
  可愛がるは行為する側が主体であり、
  安心を受け止めるのは、あくまで子供が主体、とも言えると思います。

  どんなに可愛がったと言われても、実際に可愛がられても、
  僕は父に「安心」を見いだせなかったということ。
  好き嫌い以前です。

  父親たり得なかった僕の父の問題の本質は、
  まさにここにあったのだと思うのです。
| 自分への癒しの試み | 19:23 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[02]-憎悪を手に入れて
父は暴力は振るいませんでした。
だから、我が家は最悪ではない、
最低ではないと信じられます。

しかし、虐待がなかったから問題にはならないのではないか?
とは、自分としては絶対的に納得いかないのです。

酔った父は、僕の枕元に来ると決まって僕に呼びかけます。
寝たふりを続けても、執拗に呼びかけます。
そして観念して返事をしようものなら、こう言うのです。
「早く寝ろ」と。

お前が起こしたんだろ?
お前が来なければ寝てたんだよ!

言ったところで始まりません。
僕は何時間も父の繰り言に付き合わされることになるのです。
(それは脈略のない誰かに対する不満や罵声でした)

やがて兄が、高校を卒業して東京の大学に通うために家を出ました。
特に話したことはないのですが(というか中学生になったばかりの少年に、兄弟で父親について語り合う術などありませんでした)
兄は父親が嫌いで家を飛び出すんだと信じていました。

僕は心の中でエールを送りました。
「こんな家、飛び出しちゃっていいんだよ。僕も行くから。
兄貴はこの家のことなんて忘れちゃえ!」

しかし、兄がいなくなってからこそが、父の酒乱に怯える日々の始まりだったのです。
とうとう母も限界に達したのか、父が飲みに出掛けたと感づくと、
店を早めに閉めて友達と出かけてしまうようになったのです。
(母は小料理屋を営んでいました)

必然的に、父は僕のところにしか来なくなります。
母がいないと怒って、暴れて玄関を壊したこともありました。
電話機を引きちぎって放り投げる。
テーブルやコタツを破壊する。

人に暴力振るわなかったのは不幸中の幸いですが、
家族に暴力振るったら、それはもう「人」じゃないでしょう。

どうしてもイヤで、父が部屋に来る直前に、窓から逃げ出したこともあります。
あてどなく、パジャマに裸足で近所をさまよいました。
中学生の頃は、恐怖というより悲しみが心を支配していました。
自分の境遇が、哀れでならなかったのです。

やがて僕は、高校に進学しました。
ある程度、相対的に父のこと、自分のことを考えられるようになっていました。
高校で新たな友人を得、その交遊の中で様々な家庭の存在を知ることになりました。
経済的に深刻な家。
両親が家庭内離婚状態の家。
片親の家。
そこで知ったことは、ようするに僕は大して不幸ではないのだ、という知識でした。
しかし知識だけでは、僕の納得出来ない環境を劇的な変革してはくれません。

仮に僕が不幸でないにしろ、ろくでなしで酒乱の父は存在をやめないのです。
高校生になって、主体的に生きようと思ったとき、
僕は父の存在を底辺から否定するしかなかったのです。
恐怖や不安と決別するために
怒りと憎しみを以て。

  客観と主観は恐ろしいほど遠い関係です。
  様々な虐待の体験記録などを読めば、
  自分はなんとラッキーだったのだろうと感じられました。
  しかし、我が身をふり返ってみれば、
  そこには傷ついた子供が一人で震えているのです。
  この記憶を消し去ることはできない。
  というか、可哀想でならない。
  大人となり、不自由のない生活を営み、
  地方都市では充分な社会的地位も得ながら、
  だけど記憶の中の子供はずっと怯えているのです。

  この大人の自分と震えている子供の自分とを和解させない限り、
  この問題はいつまでも自分の傷であり続けるしかないのです。

  やがて大人になっても僕は、震えている少年を思い出すと、
  たちまち「その時」の自分と同化してしまいました。
  同化して、心を充たすのは怒りと憎しみです。
  「怒りと憎しみ」で父を否定し、
  僕はかろうじて自分を律していたのです。
| 自分への癒しの試み | 17:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
自分への癒しの試み[01]-父の記憶
「自分への癒しの試み」は、わたし尾内がずっと心に抱え続けてきた問題にどう振り回されてきたか、そしてどう解決していったかを出来るだけ正直に自己開示する物語です。
同時に、可能な限り冷静な分析を加え、セルフカウンセリングとは何かを感じ取るヒントにしたいとも考えます。
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ずっと逃れられないもの、
それはやっぱり生まれ育った家のこと。

家、というのは家族のこと。
父と母と兄と僕がいた家の、まずは父のことから語りはじめようと思います。

とても幼い頃の記憶は、断片的ながらも誰もが覚えているものなのではないでしょうか?
僕の記憶の中にも、父が大声で怒鳴っていて、母が泣いていて、
幼児らしい自分も泣いている情景が今も残っています。

その時、母は、荷物をまとめていたような気がする。
出て行け、出て行く、そんなやりとりも記憶にある。

幼児期の僕は両親と同じ部屋で寝ていました。
だからそれが一回だけの記憶なのか、
いくつもの似たような記憶が混ざり合ったものなのか、
それは今となっては判然しないのですが。

ただ、亡くなってから発見された母の日記を信じるなら、
父の言葉の暴力は結婚して直ぐ、
5歳上の兄が生まれる前から始まっていたらしいのです。

ことある毎に父は母に「出て行け!」と言ったとのことですが、
失笑を禁じ得ないのは当時の我が家は母の名義だったということです。

だらしのない父でしたが、そのだらしなさ故に母に依存せざるを得ず、
その劣等感が増幅して母にぶつけられたのかもしれません。

自分が生まれる前の両親のいざこざは、一見わたし本人には無関係なようですが、
僕は母の残した日記により、実に多くの気づきを得ました。

「自分を知るとは自分の存在を位置づけること」
とも考えられると思います。
  
よくあるケースとして、血族の中の存在位置が強烈な呪縛となって、
自由に生きられないと感じる人が少なくないと聞きます。
しかし家族というしがらみ、伝統、家柄を気にする必要のまったくなかった僕は、
とても身軽で、自由で、ありがたい環境だとはっきり認識していました。
(定期的な親類の集まりなどもなく、冠婚葬祭の参加も強要されなかった等)

ところが後に思い至ったのは、その「どうでもいい家系」が逆に、
僕の自己存在を「いいかげん」にしてしまったのではないか
ということです。

  それは長い間、僕にとって両親とは
「許すか許さないか」で計られる対象でしたかなかったいうことなのでした。

父は酒乱でした。
別に珍しくもないのかも知れないですが。

父は家ではほとんど飲まないのですが、いったん出掛けると、
必ず(本当にかならず)酒乱になって帰ってきました。

少年時代になると、父は恐怖の対象でした。
父は大声で叫びながら帰ってきたので、
何分も前から父が帰宅することは分かったのです。

「コンチクショー!」
「バカヤロー!」
「死んじまえ!」
何が気にくわないんだか、そう叫びながら歩いて帰ってくるのです。

恐怖がやってくる。
鬼が帰ってくる。
恐ろしい咆哮がだんだんに近づくにつれ、僕の身体は凍り付きました。

僕は、父の声を遠くに聞き取ると、布団に潜り込んで、
どうか僕の部屋には来ないでくれ、
酔いつぶれてそのまま寝むってくれと祈り続けたのでした。
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