SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

06
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
--
>>
<<
--

カウンセリング未満

自らの生き様を心理カウンセラーの観点から綴った半生記、日常生活に役立つEQトレーニング講座・セルフカウンセリング講座など。
自分への癒しの試み[08]-鬼の所業
平成11年、ようやく父が特別養護老人ホームに入所しました。

母はずっと「あの人には無理だ」と思い続けていたのですが、意外やすんなりと父は入所を受け容れたのです。
(ただし認知症が進んで、入所=一時的な入院くらいにしか理解してなかったのかもしれませんが)

父は僕が仕事中に、施設から迎えの車が来て、それであっけなく家から去っていきました。
母からの電話でそれを知り、仕事の都合を付けて僕はホームに向かいました。

「特別養護老人ホーム」がどんなところなのか?
すでに僕も母も理解していました。
「終の棲家」です。
住民票すら施設に移すのです。

他の介護施設、例えば老人保健施設なら最大入所期間は3ヶ月とか決められています。
ところが特別養護老人ホームには「期限」がないのです。

それがどういう意味か、母とも何度も話しました。

他の施設なら、定期的に面会に来いだの洗濯物を持って返れだとかが条件としてあるのですが、特別養護老人ホームには、それがないのです。

家計は一としながらも、一切の関係を絶つことすら可能なのです。

これってつまり・・・
僕の脳裏に最初に浮かんだ言葉は「姥捨て山」でした。

  誤解のないように言っておきますが、
  特別養護老人ホーム=姥捨て山ではもちろんありません。
  事実、父の入手した施設の職員はとても優しく、
  建物も明るく開放的で、素晴らしい施設だと感じました。

  ただ、利用者を送り出す側の家族の心持ち次第では、
  どんな場所でも天国になり、地獄にもなりえるということなのです。

  おそらく毎週のように頻繁に訪れているような家族も見かけました。
  孫に囲まれて笑っている入所者も見かけました。

  高齢者施設は、どうしても家庭では介護が仕切れない、
  そういう家族の負担を軽減し、
  尚かつ高齢者に快適な生活をもたらそうとするものです。
  高齢者施設は本来そういうところなのです。

  ただ、家族がどういう思いで臨むかによって、意味が異なる。
  だから僕にとっては残念ながら
  「姥捨て山」に思えたというわけなのでした。
  繰り返しますが特別養護老人ホーム=姥捨て山
  と言ってるわけではないので誤解のないように。

ホームについて、名前を告げると、僕は事務所の奥の応接スペースに通されました。
やがて責任者らしき女性がやってきて、父は少し興奮状態なので、お会いにならない方がいいと思う、と告げました。

それから手続きです。
面白いなと思ったのは、元々申し込んであったのは確かなのですが、今日、突然ホームから電話があって、手続きらしいものをまったくしないまま父は連れてこられたのです。

だからこれから色んな書類を準備しなければならないのです。

結局、その日は父に面会することもなく、ホームを後にしました。

事務所の職員、施設の職員、優しい笑顔で物事も柔らかですが、
心の中でどう思っているかは推し量れません。

(こんな程度の痴呆で、父親を施設に入れるなんて・・・)
(お前が同居すれば介護なんて簡単なんじゃないか?)

何しろ僕としては「捨ててきた」気持ちなのですから。
やましい心があるのですから、些細なことから被害妄想に囚われます。

帰り道でも「捨ててきた」というイメージはどうしても拭えませんでした。
良心の呵責に耐えかねて
「良心?」
違いますよね、たんに「世間体」とか「見栄」ですよ。

だから自分を抵当化するために、僕は自分が「鬼」なんだと思わずにはいられなかった。

「こめんね。息子は鬼だから。いらなくなった親はこうして捨てるのさ」

泣きはしなかった。
泣くシーンじゃないし。
泣いて済む問題でもないし、泣く権利も泣く理由もないし。

ただ自分はとうとう凄いことをやってしまったんだなと、
やってやれない介護を放棄して、父を捨ててきたことは事実なのです。

「実の親」を捨てた息子

それはまちがいのない鬼の所業だったのです。
| 自分への癒しの試み | 08:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「今年の目標」は?
何をやっても上手くいかない
失敗ばかりを繰り返す
目標を達成できたためしがない

自分はそんな人間だと感じている方に、
ちょっとしたヒントとして、
「今年の目標」の立て方について考えてみたいと思います。

まず、わたし自身の体験談です。

わたしは中学から20代前半まで、
年頭に必ず「今年の目標」を掲げていました。

ところが大変恥ずかしい話なのですが、
わたしはその目標を達成できたためしがなかったのです、
ただの一度も!

この結果はかなりのダメージでした。

毎年のように繰り返される失敗がボディプローのように効いてきて、
わたしはとても消極的な(受け身な)人間になってしまいました。

その頃の心境を思い出すと、
「目標を立てるから失敗する」
「望むから叶わない」
「本当にやりたいことは何もできない」
という悪循環、そのものだったのです。

しかし、冷静に当時の自分を分析してみると、
わたしは「失敗すべくして失敗して」いたことに気付くのです。

つまり言い換えると、
「達成できないことが容易に予測可能な目標を立てていた」だけなのです。

それはどういうことか?
当時はまったく考えもしなかったのですが、実はとても単純なことでした。

たとえばこれは、中学3年の時のとても恥ずかしい「今年の目標」です。

「彼女を作る」

これだけです(笑)
高校受験は合格が大前提ですから目標にすらしていませんでした。

現代とは事情が全く異なると思うのですが、
30年前、中学生で男女交際している者は皆無に等しかったのです、
北関東のわたしの周りでは。
高校に上がっても状況は同じです。
高校時代、一人も彼女がいなかった友人を何人も知っています。

そんな時代に「彼女を作る」ただ一つを一年の目標にしていたのです。
叶う方が難しいと思いませんか?

次ぎに高校1年の時の「今年の目標」です。

「作家デビューする」
「コンサートを開く」

当時は小説家に憧れ、
同時にギターの弾き語りに夢中になっていた時期です。

「思えば願いは叶う」
という考え方があります。
これは反面教師的な意味合いが強いと思うのですが、
「行動しなければ何も変わらない」という真理を
端的な言い表した言葉だとわたしは受け止めています。

しかし「何」を「どの程度」思えばいいのか?
やはり世の中には「無謀な願い」というものがあるのです。

物語を考えるのは好きだったけど、
まとまった作品を一度も完成させたことがない。
ギターも歌も独りよがりで全然上手くない。

わたしはそんな、無謀な願いを「無謀にも」一年の目標として掲げ続け、
そして自信を失っていったのです。

まさに「失敗の法則」の好事例なのでした。

次ぎに、昨年のわたしの「今年の目標」とその達成度です。

目標15件に対して、
達成できたのが12件。
未達成が3件でした。

ぜひここで、あまりにかけ離れた目標数に注目してください。

高校1年の時は2件です。
それがいまでは15件なのです。

昨年はたまたま高い達成度でしたが、
仮に達成度が60%だった場合、
達成は9件、未達成が6件となります。

逆からみると6件、達成できなかった。
6件「も」達成できなかった。
この数は、高校1年の未達2件の実に3倍です。

ところが受けるダメージは天地ほど違うと感じられませんか?

それは何故か?
失敗もあるけど、
達成できたことも確実にあったからに他なりません。

つまり「成功体験」を有しているからなのです。
これはこころのゆとりを生みます。
心のゆとりがあれば、未達成の目標に対しても素直に原因分析ができるし、
何よりも再チャレンジ、もしくは軌道修正ができるのです。

目標が「彼女を作る」だけでは、分析も軌道修正もできません。
翌年も運に任せて再チャレンジだけです。

これはわたしの実体験です。

「一時が万事」と古くから言われていますが、
なにも自ら進んで、一回の失敗や未達成で、
自分にレッテルを貼ることはないのです。

わたしは大袈裟な目標を立て、
立てただけで計画的に行動することもなく、
「自分はダメだ」とレッテルを貼り続けていたのです。

どうでしょう、
「自分と似てる」と感じた方はいらっしゃいますか?

さて、沢山目標を立てた方がいいとは言っても、やり方にコツがあります。
それは、幅広く目標を立てるのではなく、
思い浮かんだ1つの目標を深堀して、細分化して、展開していくのです。

仮にわたしが今「コンサートを開く」を目標とするなら、こんな感じです。

○週に1回以上練習する
○毎月、家族か友達に聞いてもらい、評価してもらう
○コンサートを開けるライブハウスを探す
○ライブの集客方法を研究する
○会社(学校)で案内し、反応をみる
○健康ランドのカラオケ大会に出場し、度胸を付ける
○3・5・7月に、駅前で路上ライブを体験してみる
○12月にコンサート開催

実は、目標とは「達成するまでの過程」でもあるのです。

この「コンサートを開く」が目標であるなら、
会場を借りてコンサートを開くまでもなく、
路上ライブで一定の達成感と満足感を味わえてしまうかもしれないのです。

またはカラオケ大会で辛口の批評を受け、
自分には過ぎた願いだと納得できるかもしれません。

しかし「コンサートを開く」が単に叶わなかったときと、
目標に至るプロセスをじっくり把握できることとでは、
気持ちのありようがまったく異なるのです。

何も行動しないで目標を達成できないだけでは、
ただ自分が惨めになるだけです。
わたしはそれを嫌になるほど体験してきました。

かつてのわたしのように立てた目標がいつも叶わないと思ってる方。
試しに「今年の目標」を立ててみてはいかがですか?

ちなみにわたしの「今年の目標」は、19個になってしまいました。
「数打ちゃ当たる」じゃないですが、
これだけ用意すれば、
どんなことがあっても最低1つは実現できると思いませんか?
| 社会論の試み、もしくは雑文 | 20:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
自分への癒しの試み[09]和解の準備
平成16年に父が心不全で亡くなるまでの5年間で、
母と兄がホームを訪れたのは、たぶん5回にも満たなかったと思います。
(兄に関しては遠隔地に住んでいたので、仕方がないともいえますが)

僕は、母の代わりに(というか漠然とした呵責感に促されて)ほぼ毎月、顔を出しました。
顔を出したといっても、少しだけ話して直ぐに帰っただけのこと。
しかも「話す」といっても父は「帰ろ、帰ろ」と言うだけで、会話なんか成立したことがありません。

職員に、家族が全く知らなかった父の一面を聞かされたこともありました。
なんでも父は、頻繁に職員の手相を見たのだそうです。
しかも、ちゃんと一人一人違う見立てをするそうで、父は手相占いを趣味としていたのではないかと職員は言うのです。
母に確認しましたが、そんなことは初めて聞いたと。

想像するに、父はホステス相手に手相を占って気を惹いていたのではないか?
単に自分がもてるため。
その為だけに独学で覚えた趣味だったのかも知れません。
家族誰一人知らない趣味を。

しかしやがて、父は僕の顔もわからなくなってしまいました。
「徳二さん、誰に会いたいの?」
なんて僕が聞くと
「子供に会いたい」
などと答えるようになってしまったのです。
問いかけたのが、その「会いたい子供」なのにね。

唯一の取り柄だった健康な体も、頻繁に転倒するようになり、明らかに衰えが見え始めました。

この頃、とても割り切れない感情が僕を支配していました。

どうして父をホームに追いやったのか?
どうして同居や訪問介護などで対応しようとしなかったのか?
自分の心に問いかけてみれば、それは・・・
「復讐のため」です。

長年に渡り母を苦しめ、いい加減に生きてきて、
最後は勝手に脳梗塞になってしまった父が、
ようするに僕は許せなかったのです。

その父が離れたがらなかった家から引き離すこと、
そして孤独に苛ませることが僕にとっての仕返しだったわけです。

ところが彼は、全てを忘れてしまった。
母のことも僕のことも家のことも。

この状況下ではもはや、復讐は意味をなさないのです。
復讐は相手が復讐されていると認識して初めて溜飲が下がるのです。

この頃の気持ちは、とても複雑でした。
母のためにしたことが全て無駄になったような気がしたからです。

結果的には大好きな若い女性(ホームの職員)に囲まれた生活で、
彼にとっては幸せですらあるのではないかと思えました。

もっと仕返しがしたい、
もっともっと苦しめてやりたい。
そう思うのだけど、もはや苦しめる術がないのです。

何しろ彼にとって僕は「知らない人」になってしまったのですから。

この時期は、友人と酒を飲むと、必ずと言っていいほど僕は荒れました。
隠されていた攻撃性が表面化して、
理由をこじつけては、八つ当たりのように友人を標的にしてしまったのです。

相手をしてくれた友人達にとっては、いい迷惑だったと思います。
「思い出すと顔から火が出る」というのは、まさに今の自分です。

結局、気持ちが空回りしていたのだと思います。
「許さない」「復讐するんだ」という呪いに、僕自身が取り込まれてしまったといった感じでしょうか?

まさに「人を呪わば穴二つ」なのです。
僕は自分で自身の首を絞めようとしていたのでした。

そして亡くなる数ヶ月前、父は急速に体力が衰え始め、
とうとう一人で立つことすら出来なくなってしまいました。

かつて脂ぎって、憎たらしかったその顔は、
まるで悟りを開いた高僧にように枯れてしまいました。

憎しみはまだあるのか?
僕は自問しました。
まだ復讐したいと思うのか?
僕は自問しました。

許すとか許さないじゃない。
許さないと思っているのも自分だし、
許せるはずがないと考えているのも自分。

床に伏せる父を見下ろすのは2回目ですが、
もはや、父の姿に自分を投影することもありませんでした。

ここにいるのは「徳二」という人間で、僕とは別の人生を歩んだ者。
そこに僕の未来は一片たりとも垣間見られませんでした。

悟りきったように床に伏せる父を見つめ続けながら、
僕は何かを感じていました。
今まで味わったことのない「何か」

それは父との和解という名の「自分との和解」の予感でした。
| 自分への癒しの試み | 21:16 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[10]父からの解放(己の解放)
平成16年8月19日の深夜、
ホームから僕の携帯に一通の電話が入りました。

父の心停止の連絡です。

僕は妻に事情を告げると、母と兄に電話を入れ、一人ホームへと車を走らせました。
数日前、あまり時間は残されていないと、施設の医師から告げられていたのです。

ホームに到着すると、父はすでに別室に移され、医師による死亡の確認も済んだ後でした。
しかしそこには、まったく想像もしなかった光景がありました。

職員が泣いているのです。
父のために。
家族が介護を放棄し、家族が生きる価値なしと宣告した男のために、
何人もの職員が遺体にすがってすすり泣いているのです。
父の顔を優しくさすっている職員もいます。

僕は・・・
僕はどうだったのか?
僕はただ、父が死んだと認識しただけ。
ああ、とうとうね
やっぱりね
頭に中ではこれからの葬儀の手配とか、仕事の調整とかを考えていました。

今こうして死んだ父と接しても、
もちろん悲しくはない
まったく悲しみはない
家族なのに。

ところが家族でもない、仕事上の付き合いでしかないはずの職員が、
父を愛おしむように泣いている。

これは衝撃でした。

まず思ったのは、ここに自分はいちゃいけないんだ、という思い。
入れ替わりもあったでしょうが、5年間、触れ合ってきたのはここの職員であって、
ここでは僕こそが部外者のように感じられました。

次ぎに思ったのは、どうしてこんなひどいヤツのために泣いてくれるのか?という思い。
そんな男じゃないんだよ。
惜しまれるようなヤツじゃないんだ。
こんな男のために泣かないでくれ!

ようするに、職員の優しさが、たまらなく自分を責め立てるのです。
そう感じられたのです。

やがて、母が連絡した葬儀屋がやってきました。
慣れているので仕事が速いです。

事務的に弔意を述べ、あっという間に父をワゴン車に乗せてしまいました。

泣きながら見送る職員。
躊躇することなく走り出す車。

それはまるで家族から、何者かが非情にも、愛する肉親を連れ去ったかのような光景でした。
というか僕にはそう感じられたのです。

「終の棲家」
そうかあ、そういうことだったのかあ

僕が理不尽な対応をしている間に、
父はここで家族を得ていたのです。

父がろくでなしか極悪人かは、ここでは関係なかったのです。
終の棲家
そして家族なんだから。

父を憎んだ僕は単に父を失っただけですが、
父は憎まれようが復讐されようが、新たな家族を得ていたのです。

誰が得をして誰が損をしたか?

誰も得はしていない。
ただ単に、僕が一人で騒いで一人で苦しんで、
一人で醜い己を晒していただけだったのです。

僕の気持ちも思いも、父にはまったく関係がなかったのです。
解放されるべきは父ではなく、自分自身だった。

実家に向かう車の中で、様々な思いが交錯しました。
| 自分への癒しの試み | 12:50 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[11]手を差し出すのは僕の方だった
父は、あんなに帰りたがっていた実家に、
死んでようやく戻ってくることができました。

夜中にもかかわらずお寺に電話して、慌ただしく葬儀の準備が進められました。
翌20日、通夜
21日、葬儀告別式

取り急ぎの打合せが済み、僕が帰路についたのは午前4時を回っていました。
それからパソコンを立ち上げて、会社のグループウェアに父の死去と葬儀の案内を流して、友人達にも同報でメールを送信しました。
僕が寝たのはすでに空が明るくなった午前5時を回っていました。

翌日は午後、実家に向かいました。
母の兄弟は既に集まっていました。

父は、親戚づきあいもほとんどしていなかったので、父方の親類を僕はほとんど知りません。
結局、父の葬儀に参列した父方の親類はたったの2人だったのでした。
(ちなみに、父がホームに入所した後、実家やホームに父を訪ねてきた者は一人もなく、葬儀に参列した友人も、葬儀後焼香に訪れた友人も皆無だったのです。いったい父は、どんな生き方をしてきたのか? 親友とまでいかくなくても、葬儀に駆けつける仲間が一人もいなかったなんて)

兄は、まだ来ません。
東京に住んでするので直ぐには来られないのも分かりますが、
結局来たのは3時過ぎだったのです。

通夜、葬儀と滞りなく進み、いよいよ父は火葬される段となりました。

ここで意外なことに母が泣き出したのです。
これはもの凄く意外でした。
僕は泣かない。
兄も泣かない。
当然、母も泣かないと思っていたのです。

母にどんな心境の変化があったのか、この時は知るよしもありませんでした。

僕は、花で埋め尽くされた棺に眠る父を見つめながら、もはや何も思うことはありませんでした。
恨み、もない
憎しみもない
怒りもない

しかし後悔もない
悲しみもない

やがて父の棺は閉じられ、炉へと押し入れられました。

僕は心の中で「バイバイ」とつぶやきました。
その瞬間、心のモヤがいっぺんに晴れ、まるで澄み渡る青空に抱かれているような感覚に包まれたのです。

死は全てを浄化するといいますが、僕のこの時の心境はまさにそれでした。

憎んでいたのは自分
恨んでいたのは自分
怒っていたのも、自分

そして被害者だと感じていたのも自分
犠牲者だと感じていたのも、自分だったのです。

父という人間の生や死や存在が、僕の心を支配することはあり得ないわけで、
僕は僕自身で考え思い感じた、その結果で自分を縛っていただけなのでした。

  時間が、嫌になるほどかかってしまったことには悔いが残ります。
  クライエントに対しては
  カウンセラーである自分が用意する「空(から)の椅子」を、
  自分には自分が用意しなければならない。
  そして結局、ここまで引きずって、
  「父の死」が僕にとっての「空(から)の椅子」になったのです。

  これが「セルフ・カウンセリング」の難しさなのかもしれない。

  自身が深いトラウマを抱えたまま
  心理療法に携わっている知人がいます。
  彼女はクライエントのトラウマを受け止め、癒す努力を厭わないのに、
  自身のトラウマに関しては「解決」しようと絶対にしないのです。
  「しない=できない」のでしょうが。

とにかく、この瞬間、父に対する全てのわだかまりは消え去りました。
信じられないほど、あっさりと。

ようするに、僕が手を差し出せばよかっただけなのです。
和解の握手のために。
僕が差し出した手を、父は拒むはずがなかった。
何故なら全ては「僕の心の中」の問題だったのだから。

よく「嫌いな親が自分を産んだことに対して、産んでくれたことに感謝はできるが親の存在は許せない」という矛盾を聞きます。
「嫌いだろうが憎むべき親だろうが、産んでくれたことは事実」
この矛盾(葛藤)に苦しんでいる人も少なくないと聞きます。

しかし全ての父に対する煩悩から解放されてしまった僕にとっては
「父は生物学的な、そして戸籍上の父」
これだけに過ぎません。
「良い」とか「悪い」の地平で何かを語ることに興味がないのです。

ここで初めて「徳二」は僕の父である
と真っ直ぐに誰に対しても(むろん自分に対しても)言えるようになったのです。

淡々と弔おう。
真摯に位牌を、そしてお墓を守っていこう。
そう素直に思える自分。

僕は炉に向かってもう一度言いました。
「バイバイ」
人に見られると不審に思われるので、
心の中でにっこりと微笑んで。

(後日談)

どうして母が泣いたのか、後で聞きました。

「あたしだって泣く気はなかったんだよ。『泣くもんか!』って決めてたしね。だけどね、二人の息子を残してくれたのもあの人だったんだなと思ったら、感謝の気持ちが急に湧いて来ちゃって、それでうっかり泣いちゃったのさ」

この子にしてこの母あり、ですね(笑)

(父の章 了)
| 自分への癒しの試み | 19:26 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[12]兄弟という存在
兄について触れますが、あくまで僕の自己変容がテーマです。

実は、存命の兄弟について語ることについてはかなり悩みました。
しかしこれは、弟の感情と心が問題なのであって、この記事を以てして兄という存在や人格を評価するものではまったくないこと。
また、書きたいのは兄弟物語ではなく、僕自身の自己変容であること。
これらの気持ちの整理をきちんとつけた結果、逆に書く目的がより鮮明になってきたのです。

結論から述べれば、これは僕にとっての「家族観」なのです。
というか、自分の家族観を認識できていなかっただけのことで、僕は長い間悩んでいたにすぎない、そしてそれが「兄弟」というフィルターを通し改めて気付かされたのです。
だから兄弟を語ることは、僕にとって「家族」について考えることと同じなのです。

では、「僕にとって兄はどんな存在だったか」から、この章を始めましょう。

兄の存在は、とても曖昧でした。

5つ離れていたので、仲良く遊んだ記憶はほとんどありません。
兄は、僕の誕生を心待ちにし、赤ん坊の頃はずいぶん面倒を見てくれたそうです。
しかし残念ながら、その頃の記憶はまったく残っていません。
それらをしっかりと記憶していたら、果たして僕のその後の認識は変わったのだろうか?
仮定で考えると、なにか「なくしてしまった」ような心持ちになります。
しかしそれは、「優しくて家族思いの父がいたら」と想像することと、どこも違わないのではないかとも思えるのです。

しかし同時に兄は、常に自分の先を行く、先輩であり先生であり、見本でした。
兄が面白いというものには興味を示して、
兄が勧めるものは何でも受け容れてきました。
今も僕が持ち続けている趣味嗜好は、たぶんに兄の影響を受けているのです。
これは疑うことも否定することもできません。
兄は、幼稚な僕に「背伸び」という優越感を与えてくれる貴重な存在なのでした。

どっちも僕の兄です。
どちらも間違いなく兄だから、逆にある時期から兄の存在が僕の中で曖昧になってしまったのです。

兄は優秀で、地元一の進学校に進みました。
と同時に、兄にとって念願だった音楽教室にも通い始めました。

中学時代は水泳部、三年の時には写真部を仲間と一緒に作り、高校生になっては弁論部で賞をもらう、そして音楽にも真剣に取り組む。
そんな兄は憧れの存在で、自分の進む道を常にしっかりと認識している人だと思っていました。
(中学生の僕は、漠然とそんな感じを抱いていただけですが)

しかしやがて兄は、意外にも音楽家を志し、東京の音楽大学進学を選択したのです。
そう聞かされて(たぶん母に)、とにかく僕は驚きました。
しかし同時に、とても納得できることでもありました。

兄が家を出る。
音楽家を目指したと言っても、実は父から逃れる意図もあるはずだと僕は感じました。
それは当然だと思いました。
そしてやがて僕が進む道筋を、また兄が切り開いてくれたのだとも解釈したのでした。

このとき僕は中学一年。
兄から強い影響を受けていましたから、僕の目指す道も、必然的に音楽家になったのでした。
楽器なんかほとんど弾けないのに。
兄の進む道はキラキラと輝き、自分はただ兄についていけばいいのです。
そう信じていたのでした。
| 自分への癒しの試み | 19:22 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[13]二人切りの家族
兄のいない数年間は、とにかくどん底のような状態でした。
父の章でも書きましたが、母が父から逃げるために家を留守にする機会が増え、だらしない僕は寝坊してそのまま学校を休むことも度々でした。
食事の用意がないことも珍しくなく、何日もインスタントラーメンを食べたり、古く固いご飯を炒めただけで食べたりしました。

そんな毎日の中で思うことは、この家を飛び出したいということ。
そして、兄に会いたいということでした。

たまに帰省する兄はますます大人びて、僕の望むものを全て持ち合わせているように感じられました。
とにかく話がしたかったのです。
兄がきっと、この惨めな現実から僕を逃がしてくれると思っていたから。

兄が上京してすぐから、僕は東京に出掛けたくて仕方がありませんでした。
単に都会の空気に触れたかったということもありますが、とにかく自宅以外で兄に会いたかったのです。
しかし中学時代は、とうとう一度もその願いは叶いませんでした。
こんな崩壊しているような家庭でしたが、なぜか僕は黙って勝手に出掛けられなかった。
やがて高校生になると、友達の部屋を泊まり歩いて家にもあまり帰らなくなるというのに、中学時代はまだ、自分が勝手に生きていいとは思えなかったようです。

高校に上がって、ようやく僕は、東京に一人で出掛けられるようになりました。
最初は、母も知っている友達と一緒。
彼と何度か日帰りで東京に遊びに行き、やがて一人でも出掛けるようになっていったのです。

東京は刺激的な街でした。
秋葉原はよく行った街です。
今はすっかり綺麗になってしまいましたが、あの頃は汚くて怪しい雰囲気が充満していました。

初めて行った新宿では、あまりに巨大な駅ビルに圧倒されました。
そして信じられないほどの人の数。

ある時、兄がアパートを引っ越すと聞きました。
一人では大変だろうからと、僕は猛烈に手伝いを買って出ました。
泊まって兄とゆっくり話すチャンスなのです。

僕にはどうしても話したいことがありました。
もちろん、家族のことです。

弟が家族について語る能力を有する前に、兄は家を出てしまいました。
兄が上京した後が、父がもっとも荒れていた時期です。
しかも母は父から逃げるために家事を疎かにしていました。
僕の苦しみを知るものは誰もいないのです。
父の対する恨み辛みを、誰かに聞いてほしかったのです。
しかしそれは他人じゃダメだったのです。

その頃の僕にとっては、兄だけが家族と呼べる存在でした。
父も母も家族じゃない、家族と思いたくありませんでした。

その頃夢見ていたのは「実は僕達兄弟は養子で、本当の両親はどこかにいる」という妄想。
高校生にもなって、僕はそんなことを夢想して自分を慰めていたのです。

それは高校一年の春休みだったと思います。
僕は兄から詳しく教えられた通りに地下鉄を乗り継ぎ、一人で兄のアパートに到着することができました。
たしか四畳半で、兄はここで新聞配達のバイトをしながら音楽大学に通い、そして生活していたのです。

日用品は少ないものでした。
レンタカーのワンボックスカーに全てが一回で納まってしまい、兄はその日のうちに新しいアパートに越してしまいました。

連れ立って銭湯に行って、定食屋で夕飯を食べ、二人は音楽のことを中心に止めどなく喋り続けました。
やがて夜になり、電気を消して二人は横になりました。
僕は思いきって、父について切り出しました。
たぶん「お兄ちゃんはお父さんのこと、どう思っているの?」と聞いたのだと思います。
そしてきっと、僕が舐めてきた苦い経験と同じことを話してくれるのだと思っていました。

僕達はもらわれてきた兄弟で、どんな荒波も苦しみも分かち合ってきたのだと、僕は信じて疑わなかったのでした。
| 自分への癒しの試み | 21:22 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[14]たった一人の家族
たとえばそれは、「朝起きたら全てが夢で、自分は一人きりだった」というくらいの衝撃でした。
たとえばそれは、「目が覚めたら監獄の中で、子供になった夢を見ていただけだった」というくらいの衝撃でした。

兄は、父の酒乱の実態をほとんど知らなかったのです。
ほとんど、というより「まったく」にきわめて近いものでした。

兄はとても早い時期から一人で寝ていて、そして兄の部屋は両親の寝室から離れていました。
したがって幼児期の僕が二人の言い争いに怯えて泣いていたことを、まったく知らなかったのです、この時まで。

やがて僕が一人で寝るようになってからの何年間(兄が上京するまでの数年間)かは、実は父の酒乱が一時的に収まっていた時期と重なります。

つまり兄は父の酒乱を、なんとなく察していただけで、その被害にあったことも、それどころかその実態を見たことは一度もなかったというのです。
兄は、父が憎くて家を出たわけではなかった。
単に、自分の夢を追い求めた結果だけだったのです。

これは、想像を絶する衝撃的な事実でした。

僕にとっての「家族」
酒乱の父がいて、家事を放棄した母がいて、そして、堪え忍ぶ二人の子供がいる。
それが僕にとっての「原家族」であって、それ以外の一般論とか理想像はまったく相容れないものなのです。

その家族像の中に、兄が存在しないのです。
堪え忍ぶ子供は僕一人きりなのです。
兄は弟を守ってくれる存在でも、どこか遠くへ導いてくれる存在でも、一緒に耐えてくれる同志でもなかったのです。

兄は言ってくれました。
「そうかあ、shigeo一人が辛い思いをしてきたんだね」と。
「知らなくてごめんね」とも。

もちろん、兄に罪があろうはずがありません。
逆に、酒乱の父を知らずに過ごせたことはとても幸運だったと言えるのです。

しかし、悲しいことに僕の家族観は歪んでしまっていました。
堪え忍ぶ可哀想な子供の役目を演じるのは弟だけだったのです。
両親を否定することで大事にしていたかけがえのない家族、二人切りの家族、それが失われた瞬間なのです。

言いしれようのない孤独感が僕を呑み込みました。
もらわれっ子は僕一人だけ。
これからは、僕はたった一人で家族を演じなければならないのでした。
| 自分への癒しの試み | 13:37 | comments(0) | - | pookmark |
自分への癒しの試み[15]血を分けた・・・
兄に関して「語りたいこと」と「語れること」のギャップに、今更ながらに僕は戸惑っています。
考えてみれば当たり前で、これはあまりに一方的で、フェアな書き方ではありません。

いかに僕個人の心の問題とは言っても、仮にこの文章を兄が読んで、どんな感想を抱くかと考えると、筆がとても重くなってしまいます。
(横道に反れますが、パソコンで文章を打つ時代に、「筆を置く」とか「筆が軽い」などの表現は、やはり失われていくのでしょうか?)

さて、では一般論として、血縁関係以外の、いったい何を以てすれば「家族」となり得るのか?
逆に血縁とは、それほど重要なものなのか?

小説や映画において、この血縁が重要なキーワードになることも少なくありません。
また現実に、この血縁がもたらす事件や騒動も飽きるほど耳に入ってきます。

結局僕は、父の章で述べた通り、妻を得、子供を持ち、自分で家庭を築くまでこの問題を乗り越えられませんでした。
今、僕がまさに体験しているこの感情=娘達に対する愛は、血縁だけがその理由、根拠なのだろうか?
妻には大変失礼な例えになるが、仮に僕の子ではないと判明したら、僕のこの愛情は軽減するのだろうか?

それは絶対にあり得ない。
と、僕は言える、言い切れます。
それは何故なのか?

それはここで僕が偉そうに述べるまでもなく、生活こそが家族たり得る根拠に他ならないと思うからなのです。
ミルクをあげ、おむつを替え、風呂に入れ、一緒に遊び、一緒に学んできた体験、生活が愛情の源だと、僕は信じて疑いません。

今、父が死に、母も亡くなり、血縁的に残ったのは兄と僕だけです。

「たった一人の兄」です。
母が亡くなったとき、親類は「残ったのは二人切り」と言いました。
「二人切りなんだから、助け合うんだぞ」
と親しい叔父が言いました。

しかし、今まで接点のなかった兄と、いったい何を助け合えというのだろう?
第一、兄に援助を求めることが、この先起こりえるのだろうか?
そしてそれがあり得るとしたら、それは金銭の問題が絡むとき以外にはないのではないだろうか?

「二人切りなんだから、助け合うんだぞ」
というセリフに深い意味はなく、単なる常套句に過ぎないと思われますか?

その通りでしょう。
これは「亡くなったお母さんが天国で見守ってるよ」と大して変わらない程度の常套句であることは分かっています。

ただ僕は、「助け合う」という言葉が、その綺麗な響きに相反して空虚に感じられてならないのが、とても悲しいのです。

どうしてこうなってしまったのか?
そもそも兄弟なんていうものは、こんな程度の関係なのか?
もはや僕には分からないのです。

僕が望んだ通りの「もらわれてきた二人切りの兄弟」であったならよかったのか。
単に、一緒にいる時間がもっと長ければ何かが違っていたのか。
それも分からないのです。

ただ一つだけ分かるのは、血縁だけを以てしては、家族を愛しいと感じられない、という事実です。
もちろん、これが普遍的な真実だとは言いませんが。

しかし、こうも思うのです。
僕がずっと自分の中の「孤独な子供」を感じるように、兄の中にも「孤独な子供」がいるのではないだろうか?

僕たち兄弟は、いつかお互いの、
「孤独な子供」同士を引き合わせる必要があるのかもしれません。
| 自分への癒しの試み | 21:27 | - | - | pookmark |
自分への癒しの試み[16]母親の役割
父の回で書きましたが、兄が生まれる前から父に悩まされていた母は、次男の僕の誕生を変化の切っ掛けにしたいと願っていたようです。
しかし残念ながら母のその願いは叶いませんでした。

今思うと、母の生涯は、傷つけられたプライドの再生に尽きると感じるのです。

母は、父親(僕の祖父)の仕事の関係で青春時代を神奈川県の川崎市で過ごしました。
女学校に通い、将来は文学に関係する仕事に就きたいと夢想していたのですが、その夢は祖父の失明と、戦争によって打ち砕かれます。
失明して職を失った祖父一家は、故郷の足利へと舞い戻ります。
仕事は何もありません。長女である母は直ぐに奉公に出されました。

都会で、自由に華やかに学校に通っていた少女には、あまりに厳しい環境の変化だったと思います。

戦争終結後、祖父は死に、母の兄が一家の大黒柱として家族を支えることになります。
この伯父も、行きたかった大学進学の道を閉ざされ、若くしてその母と4人の弟妹を養うことになったのです。

過酷な時代だったのだなと思います。
(ちなみに母方の一番下の叔母は、キャスリン台風で足利が大打撃を受けたとき、生きていても辛いだけだと増水した川に投げ捨てられそうになったそうです。今でも兄弟が集まると「お前は死に損なったんだ」と言われます)

この後、どういう経緯で母が父と知り合ったのかは判然としません。
しかし「見合い」でなかったこと、今でいう「できちゃった婚」であったこと、加えて「もう一人、結婚を考えた男性がいた」ことは事実だったようです。
その「もう一人の男性」と結婚していれば・・・
きっと母は何度も思ったのでしょうね。
きっと何度も何度も悔やんだのだと感じるのです。

最初の記事でも書きましたが、結婚して直ぐから、母と父はこんな関係になっていたといいます。

-----------------------------------------------------
ただ、亡くなってから発見された母の日記を信じるなら、
父の言葉の暴力は結婚して直ぐ、
5歳上の兄が生まれる前から始まっていたらしいのです。
------------------------------------------------------

また別の記事で
--------------------------------------------------------
母の日記によると、酔って帰った父は、
どこの誰々と遊んだとか、一緒に飲んだとか、あとはもっと聞きたくないことまでを、
寝ていた母を起こしてくどくど説明したのだそうです。
--------------------------------------------------------
と書きました。

少女時代を都会で過ごした母は、祖父の失業と戦争による貧困で夢と希望を失い、父と結婚することで女のプライドすらも深く傷つけられたのです。

それなのに、何故母は父を選んだのか?
これだけはとうとう母から聞くことはありませんでした。

「あんなに酒癖が悪い人だとは思わなかった」
結婚前の父について母が語ったのは、これだけなのでした。

母の日記は断続的に、兄が生まれる数ヶ月前から、僕が小学1年の時まで続いていました。
その後の日記は存在が認められず、数十年の時を経て、亡くなる数年間の日記が残されていました。

このブログで、まるで僕が古くから母を愛して止まなかったと思われるかもしれませんが、実際はまったく逆です。

僕は父を憎むのと同様に、母のことも憎んでいました。
僕が逃げたかったのは父の存在だけではなかったのです。
母からも逃げたかった。
もっと言えば、母なんか捨ててしまいたかった。

思えば、本当に親不孝な息子だったのです。
時を巻き戻すことはできませんが、仮にできたら、心から孝行したい、そして僕が投げつけた残酷な罵声、一つ一つについて心から懺悔したい。
・・・それが叶うはずがないから、後悔はなくならないのでした。
| 自分への癒しの試み | 22:43 | comments(0) | - | pookmark |